ハチ公拾遺



(昭和9年1月「児童新聞(四年用)」見出しより)
 ◎ハチ公に関する、諸説・俗説等の整理と考察

目次

○ハチ公の誕生日について
○ハチ公の生家について
○ハチ公の血統について
○ハチ公の名前の由来について
○ハチ公の毛色についての考証
○荷札と葉書について
○ハチ公の銅像について
○ハチ公の死因について
○ハチ公の墓所について
○ハチ公の没年について
○ハチ公の行方
○ハチ公の歌について
○ハチ公野良犬説
○ハチ公忠犬否定説について
○浅草におけるハチ公
○上野夫人について



ハチ公の誕生日について


 ハチの生年は大正十二年十一月であるのは分っているが、その日にちまでは分っていない。ときに言われる「大正十二年十一月二十日生まれ」というのは、実は誤りのハチ公戸籍によるものである。
 誤りの戸籍は、ハチの生家が判明する前に作られたもので、父犬と母犬の名前も実際とは異なっている。
 この戸籍は、渋谷駅の「忠犬ハチ公記録」に収められている。渋谷駅発行の「渋谷駅100年史・忠犬ハチ公50年」の「忠犬ハチ公思い出アルバム」に戸籍の写真が掲載されており、また「ハチ公文献集」にも内容が転載されている。
戸籍の内容を次に掲げる。


ハチ公戸籍調
秋田県大館町
小野 進記

父 二代一文字(老犬)
秋田県扇田町 故乳井助吉氏愛犬

母 赤   号(四才位)
秋田県大館町 故柴田常太郎氏愛犬

出生 大正十二年十一月二十 日


 上記の戸籍を記した小野進(すすみ)氏は、秋田県の教職にあり、史蹟天然記念物調査委員を任じていた。早くから日本犬保存に関心を持ち、ハチ公を愛していた人である。(詳細は「ハチ公人物辞典」参照のこと)。
 小野さんが昭和9年10月に発行した著作「秋田犬・奥羽北海の動物を語る」にも、同じ戸籍の内容が記されている。この時点では、ハチ公の生家は判明していなかった。上記の内容は、まだ仮定であったのである。ハチ公の没後、上野先生へ送り届けた栗田礼三氏の証言によって、はじめて斉藤義一氏宅の出生であることがあきらかにされた。
小野進氏は、昭和12年発行の自著「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」にハチ公の生家が判明するまでのいきさつを次のように書いている。


『 古来人間社会では英傑太閤秀吉でも、名匠甚五郎でも、偉くなるととかく、伝説的挿話が伴ふやうに、この英雄犬も後日出生地争ひといつた形成になり、偽血統書を振り廻す今天一坊も現はれた等と、地方新聞では余りに大きな話題となつた。
茲に愛犬生活五十余年、秋田犬の父といはれ、犬界大御所たる大館町の田山弥一郎氏は苦心調査の結果、迷夢を排して初めて、出生地を大館町に決定した。
拙著「秋田犬・奥羽北海の動物」に発表した長詩と、大館駅等の銅像碑文は、そのつもりで作られたものである。
 所が、昭和十一年一月一日、元秋田県耕地課長故世間瀬千代松氏の部下であつた栗田礼蔵氏から、「忠犬ハチ公は、私が東京に送つたのです」といふ通信があつて、晴天の霹靂、俄然疑義を生じ、又々田山氏の調査となつた。(中略)
歴史は逆に、人間なら戸籍面の一項にあたる出生問題も、かくして最後に決定を見た。 』


生家判明後の戸籍については、次項「ハチ公の生家について」で述べる。


ハチ公の生家について


 ハチ公が有名になると、地元秋田県大館では、我こそは親元であると名乗り出る者が後を絶たなかった。当時の秋田犬愛好家では大御所である田山弥一郎氏が調査に乗り出したが、なんといっても資料がない。上野博士は、秋田犬の子を送ってくれるよう世間瀬千代松氏に依頼した、という葉書しか書いていない。だれの家で生まれた秋田犬なのか、博士自身も知らなかったことであろう。
 では、なにをもってハチ公の血統を探ったのであろうか。唯一の手がかりは、ハチ公の「顔」であった。
 報道されたハチ公の写真を目にして「これは一文字に生き写しだ」という声があがった。一文字号は、その頃秋田犬の血統でも名犬といわれ、扇田の明石文治氏が所有していた犬である。闘犬にも使われていたという。
 現代のように血統書は発行されていなかったが、地元の愛好家たちによって、何号は何処の誰所有といったように、戸籍は調べられていた。田山氏は、戸籍の血統図から、一文字の血脈で、ハチ公に該当する犬を探っていたものであろう。そうして辿りついたのが、一文字号の子、「二代一文字」号であり、おそらくこれがハチ公の父犬であろうと目されたのである。(このいきさつは「ハチ公の誕生日について」でも触れた。)
 この「定説」が覆されたのは、昭和十一年一月。栗田礼三氏が、「ハチ公を博士へ送ったのは自分である」と名乗り出た。
 栗田氏は、上司であった世間瀬氏から、共に恩師であった上野博士へ、秋田犬を送ってくれるよう頼まれた。大館方面で技師をしていた栗田氏は、親交の深い斉藤義一宅で生まれた子犬を貰いうけ、大正十三年一月十四日に大館駅より発送した。
 栗田氏も、その後のいきさつは知らなかった。博士が亡くなったときも、遠路のこともあって葬儀には参列できず、ついそのまま上野家と疎遠になっていたのである。斉藤家でも、当主の義一氏が昭和三年に亡くなっており、ハチ公の親元騒ぎにも無縁であった様子である。
 点と点が一本につながったのは、まさにハチ公の魂が導いたともいえる。ハチ公が死んで渋谷駅は銅像前に焼香客が絶えず、霊祭が行われていたが、偶然用あって上京した栗田氏が、これに行き会う。連れから、ハチ公は上野博士の愛犬と聞かされ、はじめて十三年前に、自分が送った子犬であると気がついた。
 さっそく栗田氏は、おぼろな記憶を確かめるためにも、斉藤義一氏の未亡人にことの次第を告げる手紙を送った。斉藤家の驚きもさだめし大きかったものであろう。義一氏の令息から、ハチ公について問い合わせる手紙が返ってきた。
 こうしたやりとりの後、「ハチ公は自分の送った犬に間違いない」と判断した栗田氏が名乗り出ることによって、はじめてハチ公の生家は判明したのである。
 斉藤家は地元の豪農であり、当時の番地は、北秋田郡二井田村字大子内。ハチ公の父犬は、大子内山号。母犬はゴマ(胡麻)号。どちらも斉藤家所有の秋田犬であり、大子内山は一文字号の子である。二代一文字とは、同腹の兄弟にあたる。
 ハチ公はその生存中、「おじさん」の子と思われていたことになる。


ハチ公の血統について


一、ハチは秋田犬
 ハチ公は純血の秋田犬である。これは数々の証言と、日本犬の研究家である斎藤弘吉氏や、当時の秋田犬愛好家の裏づけがあるから、動かぬ事実である。
 しかるに、ハチの片耳が垂れていることや、銅像の尾が巻いていないことを指摘して、秋田の雑種であると報道されることが、その生前からあった。
 耳が垂れたのは、犬の喧嘩で噛まれた傷がもとであり、まったくの後天的なものである。まだ耳の垂れる前の写真も残されており、死後解剖の際にも耳の負傷があきらかにされている。
 また、尾に関しては、斎藤弘吉氏も書いているが、犬は尾を垂らして座ることがよくある。銅像の尾が巻かぬからといって、ハチが混血である理由にはならない。写真でも尾が垂れて写っているが、老年時の撮影であることも考慮に入れねばなるまい。秋田犬も年をとり体力が弱まれば、尾を垂らしがちになるのは、現在でも飼育者からよく聞かされる。実際、若いときの写真では、ハチの尾は巻きあがっている。
 こうした誤聞と訂正は、幾度となく繰り返されており、はっきりとした証明があるにも関わらず、現在においても、ハチを雑種であると解説している文に出会う。
 中には、こういった意見もある。秋田犬は闘犬時代に、より強い犬を作るため、土佐闘犬やマスチフの血を取り入れたので、昭和の初期においては、かなり混血化していたと。その遺伝で、ハチの耳は垂れている、云々。
 確かに、当時の秋田犬の雑種化は著しかったが、こうした闘犬用の犬とは別に、地元の愛犬家により和犬型の血を残す努力がされており、純血種として復元されていた秋田犬もいたのである。これらが、現在の秋田犬へとつながっている。ハチもまた、そうした血脈のなかから生まれた秋田犬であった。

二、ハチの血すじ
 ハチ公の血統については、「ハチ公の生家について」に詳しい。
 生家判明の後も、異説を唱える者があり、未だに憶測の飛び交うハチ公の血統であるが、実は当時の資料を丹念に調べ上げた論考が存在し、それによって確かな裏づけがされている。論考は「ハチ公の生家とその経路」と題され、昭和五十年、村岡勇吉氏(秋田犬愛好家)によって「愛犬ジャーナル五月号」に発表されたのである。
 村岡氏は、栗田氏が大館方面に滞在していた期間、斉藤家との親交、また栗田氏の手紙のあとづけを行った。村岡氏の調査の結果、ハチ公の生家と血統は間違いのないことが確認されたのである。
 村岡氏の論考については、別項に詳述する。ここでは、幾つかの異説について考えてみたい。
 ハチ公の容貌をもって、秋田犬ではないという人もいる。新秋田犬の系統ではないかと考える者もあるようだ。しかし、比較の対象を「現代の秋田犬」に置いたのでは、間違いのもとである。秋田犬は、戦前と戦後の二度、混血の憂き目にあっている。その度に当時の愛好家によって、和犬の風貌を復元する努力がされてきた。故に、時代によって外貌も多少異なるのである。ハチ公が、現代の秋田犬と違う部分があっても、それは当然のことである。
 当時の人々は、ハチ公の外貌をどのように見ていたのか。
 「一文字に似ている」といわれたハチ公は、血統も良かった。秋田犬保存会で顧問を任じた経歴のある田山定吉氏は、当時のハチ公の印象を、次のように書いている。

「私はたまたま、昭和七年十一月六日、東京・銀座、松屋屋上で開かれた秋田犬展覧会(※)に出かけた。ところが驚いたことにハチが、”参考招待犬”の名称で出品されているではないか。(中略)頭骨、足がきちんとし、貫禄のある秋田犬で、顔にはケンカでかまれた傷もあったが、古武士的風格があった。見学者から大変な人気があったことを覚えている。」(昭和五十一年十二月九日「秋田さきがけ」より)
(※日本犬保存会主催、第一回「日本犬展覧会」のこと。)

 また、やはり秋田犬愛好家、栗盛信吉氏はハチ公を一目見て一文字号との類似に気がつき、同犬と比較しつつ、ハチ公の美点を認めている。当時の秋田犬としては、地元の愛好家をして、「よい犬」と言わせたハチ公なのである。送り主の栗田氏も、四匹あった子犬の内、最も優良なものを選んだと証言しており、上野博士にも、ハチ公は自慢の犬であった。

 次のような考えもある。
 秋田犬は、大正九年、渡瀬庄三郎博士によって、天然記念物制定の為の調査が行われたが、当時あまりに雑種化が激しく、認定は立ち消えになった。よって、大正時代に純血の秋田犬はいなかった筈である。ならば、ハチ公も純種ではないと。
 だが、大正九年当時に認定がならぬほど、種が雑多化していたとはいえ、その状態のままでは、昭和六年の制定に漕ぎ付けない。認定が叶わなかったことは、地元の愛好家を発奮させた。郷土の宝ともいえる秋田犬の復元がはじまったのである。以来、和犬の風貌強きものを掛け合わせ、優良な犬を生み出すための作出が行われた。その血脈にあるのが、一文字であり、大子内山であり、ハチであったのである。
 一般に流布するハチ公の写真は、老犬時代のものが多く、衰えたハチ公は耳や尾も垂れている。それ故、いまいち秋田犬の感じが出ていないかもしれない。十歳を超えていたハチ公は、今よりも犬が短命であった頃には、そうとうの高齢犬である。現代の十五歳位に相当するのではないだろうか。老犬なれば、姿形が多少崩れるのも仕方あるまい。若い時代のハチ公は、やはり日本犬らしく写っている。顔も、決して新秋田系統の臭みがなく、現代の秋田犬にも通じる表情や顔つきが見られる。
 負傷した片耳故に、雑種と報道される度、日本犬保存会や斎藤弘吉氏は、必死に訂正してきた。剥製となったハチ公が凛々しいのも、実はこうした背景故の、配慮があったのである。
 ハチ公ファンでは右に出る者がない、といっても過言でない小野進氏は、ハチ公の正しい生家が判明した後に、次のように記している。

「(略)天晴れ、血統正しい名門(名犬)の血をひいて居る伝説的誇りを多分にうけ、世界に名をなすまことに故あるかな、とハチ公を知る人々には、うれしいニユースとして、感嘆の声さえもらさせた。」(「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」より)

 まさしく、ハチ公はあらゆる面において、秋田犬を愛する者のユートピアであった。


ハチ公の名前の由来について


 ハチが公をつけて呼ばれるようになったのは新聞に報道されてからで、上野家では「ハチ」で通っていたようだ。(一説には、門下生が公をつけて呼んだとも言われている。)
 そのハチの名前の由来については、座ったときの足が、八文字に開いていたからであるとか、八番目の犬であるとか、色々な説があるようだが、どれも本当のところは分らない。(尚、ハチは、八番目の犬では無い。)
 上野先生の門下生である岸一敏の書いた「忠犬ハチ公物語」(国会図書館蔵)には、上野夫人が名づけ親であると書かれている。


ハチ公の毛色についての考証


 ハチ公は何色をしていたのか。
 松竹の映画では、赤毛の秋田犬が使われている。では、ハチ公は赤毛か?
 しかし、東京科学博物館にあるハチ公の剥製は、どう見ても赤くはない。すると、本当は白毛の秋田犬であったのか?
 様々な憶測が飛び交うが、実はハチ公には「二色」あると考えるべきなのだ。
 何故なら、ハチ公は秋田犬。血統種には、当然定められたスタンダードが存在し、血統上何色かに分類される。これに対し、色の濃い薄いはそれぞれの固体によって違ってくる。例えば、血統上は同じ「赤」でも、色素の濃い犬もいえば、薄い犬もいる。
 つまり、ハチ公は「血統上の分類」と、「視覚上の色」を持っていることになる。
 では、彼の血統上の色は何色か。
 ハチ公の祖父犬一文字号は、「黄赤」と表現されており、ハチ公は毛色は赤一枚、毛は錆びているので明確をさける。しかし悪い色ではなかった、と栗盛信吉氏(秋田犬愛好家)が証言を残している。
 ハチ公の血統上の分類は「赤」である。
 一方で、当時ハチ公を見た人々の多くは、「白犬」と表現している。
 斎藤弘吉氏は、はじめてハチ公と出逢ったときの印象に、「クリーム色」と記しており、また日本犬会誌に「薄黄」とも紹介している(当時はまだ日本犬の標準が定められていなかったことも留意いただきたい)。
 昭和九年発行の児童向け「忠犬ハチ公物語」でも、文中に「ハチ公は白犬です」と注釈がある。
 ハチ公は色素の薄い赤毛をしていたのであろう。現在でも、分類上は赤毛であるが、成長と共に白っぽく毛がぼやけるという事例もある。ハチ公の剥製にある色が、つまり「視覚上の色」である。
 さて、最後にハチ公ファンであり秋田犬救世主ともいうべき、小野進氏の証言を引用したい。小野氏もハチ公の色については気にかけており、度々著作において言及している。

『 然らば我が忠犬ハチ公の毛色はいかに、超純白程度であらねばならぬが、さて実物はウス赤程度のものが老いて赤毛(※)が多くなつたものである。先づ先づ白の系統と見て差支へないと思ふ。写真には白く写る。(中略)著者は後世に誤りを伝へぬ様に、一言弁じ置く次第である。 』(「秋田の動物を語る」から「忠犬ハチ公の毛色について」より)

(※原文に「赤毛」とあるが、文脈からみて「白毛」の誤りであろうか?)


荷札と葉書について


 大正十二年の十二月。上野博士は葉山にある別荘で療養中に、渋谷の自宅へ葉書を出している。これが、ハチ公の「出所」を知る上での手がかりであり、定説の証拠となるもので、内容は世間瀬千代松氏へ秋田犬の子を送ってくれるよう依頼したから、受け取りを頼む、というものである。宛名は養女つる子さんになっている。
 博士の葉書には、資料によって二種類の文体がある。一つは「候文」、もう一つは「ました文」である。どちらが本当なのであろうか。
 よく引用される「ました文」の葉書は、渋谷駅の「忠犬ハチ公記録」に収められているものである。内容を以下に写す。


 秋田犬の仔を送つてくれる様に世間瀬千代松さんにたのみました 渋谷駅についたら すぐお受取なさい また めんどうですが 夜分は内玄関に入れて 風を引かせぬ様にして下さい まづは右一筆申上げます かしこ
大正十二年十二月三十日夜
                  葉山にて  英三郎
東京市外渋谷町中渋谷大向
上野英三郎内
   つる子様


 実はこの葉書、本物ではなく、複製したものである。斎藤弘吉氏によれば、実物は同氏が所有しており、それを元に吉川駅長が作ったのだという。斎藤氏が、ハチ公出自の唯一の手がかりとして引用しているのは、以下である。


 秋田犬の仔を送つて呉れる様世間瀬千代松氏へ申し送り候間、渋谷駅へ到着の節は早速御受取りなされ度、また面倒なれど夜分は内玄関へでも入れて風引かぬ様になされ度候 まづは右一筆申上置候 かしこ
大正十二年十二月三十日夜
                  葉山にて  英三郎
東京市外渋谷町中渋谷大向
上野英三郎内
   つる子殿


 斎藤氏が所有していた葉書が実物であるから、上野博士が書いたのは「候文」のほうである。吉川駅長は、ハチ公の到着荷札まで拵えていて、こちらも渋谷駅に保存されている。「小荷物到着通知書」とあり、日付が1月9日、番号は8、発駅大館、品名仔犬、個数1、とある。斎藤氏に寄れば、

「現在渋谷駅長室に保存されているハチ関係書類の中に、この上野博士のハガキが保存されていて、葉山大正十二年十二月三十日の消印が押されてあるが、これは私所有のハガキの複製を吉川駅長が作ったものである。また、大正十三年一月十日付けの小荷物到着通知書が保存されている。記入は一月九日、番号8発送駅大館、仔犬となっている。これもハチが有名になってから同駅長が作らせたもので、番号の8はハチに因んだものであるが、着駅の日付も発送駅名もいい加減に作ったものである。後にこんな偽作がほんとのものと間違われては困るので書添えて置く。」(「日本の犬と狼」)

 と、ある。

 さて、本物の葉書にも、到着駅を「渋谷駅」と記しているが、実際にハチがやって来たのは、「上野駅」であった。
 博士は到着の駅を知らなかったのであろうか。或いは、当時の交通網が発達する前、加えて震災間もない頃であるから、上野から渋谷まで仔犬を徒歩で運ぶのも大変なことであろう。ならば、「上野駅」着の荷物を、「渋谷駅」付けで送った可能性も、当時の状況を調べてみないでは確かなこととは言えねども、考慮出来るであろう。
 だが、それはそれとして、葉山にいた博士がそこまで考えて書いたものとは思われない。また、博士は世間瀬千代松氏に依頼したが、世間瀬氏は更に部下の栗田氏へ手続きを頼んでいるから、この時点で正確な発送時刻が分る筈もなく、「上野駅」到着と知る由もなかったであろう。ただ、単純に渋谷駅と記したものに思う。
 ハチ公の「渋谷駅到着駅」が覆されたのは、昭和五十四年のことであったという。


ハチ公の銅像について


 現在のハチ公の銅像は二代目で、初代の銅像は昭和九年、ハチ公の生前に建立された。(詳細は年譜参照の事。)
 銅像の作者は彫刻家の安藤照氏。その製作にあたって、安藤氏のアトリエにハチはモデルとして通っていたのである。安藤氏は犬好きであったそうで、銅像製作よりも前に、ハチをモデルとした石膏像を帝展に出陳している。(安藤氏にハチ公を世話したのは斎藤弘吉氏であった。斎藤氏は東京美術学校の出身で、もとは美術を志していた人であるから、美術関係の縁故である。また、安藤氏は日本犬保存会の賞碑も手がけている。)
 その初代ハチ公像も、戦時中の金属回収令によって昭和十九年に回収され、鋳潰されてしまって、もやは現存しない。
 現在の二代目ハチ公像は、戦後渋谷界隈の人々の希望により再建されることとなり、製作には安藤照氏のご子息、安藤士氏があたった。現在渋谷駅前に親しまれている銅像は、戦後生まれなのである。
 銅像溶解のいきさつであるが、東京鉄道局長より、溶解に関する通知がもたらされた斎藤弘吉は憤慨し、安藤氏の優れた芸術作品であることを訴え、溶解の阻止を交通公社へ掛け合う。その際、同じ量の銅を自分が用意してもよいとまで申し出たのである。斎藤氏の抗議により、銅像の溶解は名目上取り下げとなり、但し、駅頭に置いては人目について外聞が悪いとのことから、一時別所にて保管する、という話に落ちついた。
 しかし、戦後になって行方を調査したところ、終戦直前に浜松市の工場にて溶解されたという知らせがもたらされた。
 また、秋田県大館にも、ハチ公の銅像はある。
 こちらも、二度建設されており、初代は昭和十年の建立、惜しくもハチ公没後の除幕となった。昭和十九年、渋谷の銅像に続いてやはり供出の憂き目にあう。
 現在の大館駅前のハチ公像は、昭和六十二年に再建された。同じく大館駅前のシンボルである、母犬と子犬の憩う「秋田犬群像」は、昭和三十九年の建立で、ハチ公像再建が、著作権の問題で許可を得るまでの代用でもあったという(「野をかける夢・小野進伝」渡辺誠一郎著出典)。

 渋谷のハチ公像に関しては、近年新たな情報がもたらされた。
 それは、初代銅像のプレートが残されていたことである。この発見は、平成十八年六月十三日放送の、テレビ東京「なんでも鑑定団」に出品されたことからあきらかになった。出品者は偶然、このプレートを手に入れた。鑑定の結果、溶解されずに残されていたものと判明。
 多くの人々に愛され、長く渋谷駅で親しまれてきたハチ公像、いわばその命の断片といえよう。しかるべきところで、永久に保存されることを期待したい。


ハチ公の死因について


 ハチ公は享年十三歳(数え年)、当時の犬としては、ずいぶん長命であった。彼の死因は老衰とフィラリア症であったと伝えられている。ところが、ハチ公の死後解剖にあたった人物によって、実際の死因は肝障害であったと確認されていた。
 詳細は、黒川和雄著「犬の難病・フィラリア症の実態――今こそ知っておきたい」(小学館スクウェア出版)*収録の「忠犬ハチ公はフィラリア症で死亡したか」による。  同書によると、ハチ公の解剖にあたったのは東大獣医病理学の江本修教授と発表されているが、実際に作業したのは山本修太郎助手(後の東大名誉教授)であり、死因は肝臓病と判断されるとのことである。
 斎藤弘吉氏も、「日本の犬と狼」のなかで、ハチ公解剖の際、フィラリア虫はごくわずかしか発見されなかったことを書いている。また、現在東大農学部の資料室に保管されているハチ公の肝臓は、肝硬変に近い状態を示しているという。(雑誌の切り抜き記事による。切り抜きの為、誌名は不明)*2。
 晩年のハチ公は腹水がたまって苦しそうであったといわれているが、肝臓病を患っていたのでは、もはややきとりどころではなかったろう。ハチ公の胃袋からやきとり串が発見されたのをもって、彼を食い物目当てという人もいるが、串が出てきた事と彼の食欲は無関係である。
 なかには、串がささっていたのを死因と言う人もあるようだが、これは直接の死因ではない。ただ、胃壁に突き刺さっていたのだから、ハチ公に苦痛を与えていたのは確かである。

*同書の資料提供・恭子さん
*2資料提供・渋谷のハチさん


ハチ公の墓所について


 ハチ公は上野博士の傍らに眠っているとされている。つまり、彼の墓所は青山墓地にあるわけだが、ハチ公の体は剥製にされて、科学博物館にあり、また青山墓地は動物の埋葬は出来ぬという関係者の話である。だから、青山墓地にあるのは、ハチ公の碑のみであるとは、近年よくいわれる話である。
 しかし、斎藤弘吉氏の記述では、ハチ公の死後、その肉体は標本とされる為に剥製師のもとへ送られ、内臓の一部を上野博士の傍らへ葬ったということになっている。これは、新聞にも報道され、青山墓地で行われた葬儀の写真もある。ハチを博士の側へと願ったのは、上野未亡人であった。
 現在の青山墓地は、動物の埋葬は出来ぬと回答しているようだが、今はどうあれ、新聞記事や斎藤氏の記述を信ずるなら、青山墓地にはハチ公の「内臓」が眠っていることになる。
 当時(戦前)の青山墓地では、動物の埋葬に関して、どうのように規定していたのか分らぬが、斎藤氏や上野夫人が、ハチ公の内臓を青山に葬ったと証言している以上、まさか彼らを欺いてまで墓地関係者が動物(ハチ)の埋葬を拒否したとは考えられぬので、ここにハチ公の「内臓」があるものと思う。(当時は動物に関する規定がなかったのか、ハチだけ特別許可であったのかは定かでないが。)
 ならば、やはり青山墓地はハチ公の墓所と考えて、何ら差し支えないことになるだろう。


ハチ公の没年について


 ハチ公の没年については、表記もまちまちで、十一歳とするもの、十二歳、十三歳とあるものなど、色々あるが、混乱を招いているのは、「満年齢」と「数え年」の二通りの解釈がある為である。
 戦前の日本では、一般的には生まれた年を一歳として数える「数え年」が用いられており、また誕生日の概念も今ほどは発達していなかった。正月を目安に年を数える場合も多く、「明けて何歳」という言い方もあった。
 ハチ公資料の多くは、没年を「十三歳」としているが、これは数え年による年齢である。当資料では、当時の表記に従って数え年を用い、その旨を明記した。
 満年齢で誕生日を考慮すると、大正十二年十一月生まれ、昭和十年三月八日没のハチ公は、享年「十一歳」となる。


ハチ公の行方


 ハチ公の墓所は青山と伝わるが、肉体は剥製となっているので、骨肉は埋葬されていない、従って青山にあるのは碑のみであり、正式な墓所ではない――といわれる説については、「ハチ公の墓所について」で解説したように、実際はここに、ハチ公の内臓が眠っているのである。
 ハチ公は、単なる一世を風靡した人気者というだけではなかった。彼は、当時貴重な天然記念物たる秋田犬であった。また、秋田犬としては、その頃にしてすでに「昔風」と評された、昭和の血統改良以前の、古い秋田犬の面影を残していたようである。当然、研究資料としても貴重な存在の彼であり、また生前の偉業(?)を後世に伝えるために、彼の肉体は標本となり、その内部も大切に保存された。ここでは、ハチ公の遺体の、それぞれの行方についてまとめてみた。

◎皮毛、爪及び指骨・・・・・・これは、現在東京科学博物館所蔵の標本となって遺されている。ハチ公は何色か、という問題に対し、この毛皮をもって白色の秋田犬という人もあれば、実際は赤毛の犬であり毛皮は時を経て退色したと考える人もある。これについては「ハチ公の毛色についての考証」にも記した如く、ハチ公の血統上は赤毛に属するが、当時の証言者によればほとんど「白犬」と呼んで差し支えなかったようであるから、見た目の色としては剥製の被毛は当時のままの色を保っていると考えて間違いなさそうである。

◎内臓(一部)・・・・・・先述の如く、青山墓地に眠っているハチ公のたましいはこれである。上野夫人の希望により埋葬され、青山墓地で葬儀も行なわれた。斎藤弘吉「日本の犬と狼」に記述があり、葬儀の様子を三月十三日の朝日新聞が報じている。

◎臓器(心臓、肺、肝臓、脾臓)・・・・・・これらハチ公の「内部」は、東京大学にて保存されている。黒川和雄著「犬の難病・フィラリア症の実態――今こそ知っておきたい」(小学館スクウェア出版)によれば、東京大学農学部入り口にある弥生講堂隣接の資料室に保管されているとの由。

◎骨・・・・・・さて、一番の問題となるのが「遺骨」である。今までは、青山墓地に埋葬されていると言われていたハチ公の骨であるが、あそこに眠っているのは内臓のみ。では、科学博物館の標本に使用されているのかというに、さにあらず。実はハチ公の遺骨、これはもやはこの世に存在しないのである。
 ハチ公の骨は、骨格標本として斎藤弘吉氏が自身の研究室に保管していた。標本の写真が、斎藤氏の著作「日本の犬と狼」に収録されていたよう記憶するが、現在手元に本書がないので、追って確認したい。さて、この標本が失われてしまった日は、昭和二十年五月二十五日。この日東京を襲った米軍の大空襲により、斎藤氏の研究室は灰燼と化し、多くの資料と共にハチ公の「遺骨」も戦火に消えてしまったのである。

◎声・・・・・・さて、まことに不思議なは、ハチ公の「声」が残されていることであろう。彼の「肉声」はレコードに吹き込まれて大切に保存されている。このレコードについては、以前フジテレビの「トリビアの泉」にて取り上げられたことがある。「オオーン」という鳴き声が録音されていた。当時人気を博していた犬語翻訳機「バウリンガル」によって解析した結果は「さみしいよう」という言葉であったという。


ハチ公の歌について


 ハチ公が唱歌に歌われ、レコードに吹き込まれたというのは有名な話であるが、その唱歌の実態については不明な点が多い。現時点で筆者の知り得た情報を、ここに書いておきたい。
 ハチ公の歌というのは、実は一作だけでなく、様々な人物によって作られている。近年、ハチ公の唱歌の楽譜発見と、新聞に報じられたのは小野進作詞のものであるが、当時レコードに吹き込まれ歌われたのはこの作品ではなくて、サトウ・ハチロー作詞の「ハチ公の歌」のようである。(斎藤弘吉の記述による。)
 また、「渋谷駅100年史」にはハチ公の楽譜四枚の写真が収められており、いずれも作曲は異なるが、二枚に島田馨也作詞と書いてあるのが読める。調査不足の為に判然とせぬところも多いが、現時点で確認のとれたハチ公の歌は、作詞だけでも三作品ある。以下に、その三作品についてまとめる。

一、「ハチ公の歌」(サトウ・ハチロー作詞、平岡均平作曲)
詳細/制作年、昭和9年頃か。詩、楽譜、レコードともに未確認。当時歌われていたのは、この作品を差すものと思わる。斎藤弘吉著「日本の犬と狼」にその記述がある。また、ハチ公に関する文献を網羅した林正春編「ハチ公文献集」収録の新聞記事にも、ハチ公の歌について触れた箇所がある。(但し、作詞・作曲者については書いていない。)

 
二、「ハチ公唱歌」(小野進作詞、小田島次郎作曲)
詳細/出典は小野進著「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」見返し。
近年新聞にハチ公の楽譜発見と報道されたのがこれ。
作詞者は小野進氏。出典となっている「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」は昭和十二年刊行で、前半は時節柄の愛国詩で飾られているが、大部分はハチ公の詩と思い出が綴られている。
小野進に関しては、「人物辞典」や「日本犬人物列伝」(公開準備中)にもご紹介したが、当時大館中学校の博物教師をしており、また史跡天然記念物調査委員に名を連ね、郷土の名犬・秋田犬を愛していた。ハチ公が世に現れるや、たちまち大ファンになってしまった。ハチ公への愛は、詩になり、写真へ収められ、文献にまとめられていった。 そうしたハチへ捧げた愛のひとつが、この「ハチ公唱歌」であった。
残された文章から察せられる小野進氏は、非常に愛国心の強いひとであったようである。国を愛することは、郷土を愛することであり、ふるさとへの愛は、万物への愛であったのではないか。そして、すべての生きとし生けるものの愛のみなもとは、「犬」という生き物に代表される、純情なまごころであった。だからこそ、「忠犬ハチ公」という存在は、小野氏にとって、「愛の根源」ともいうべきものであり、ハチ公を讃え歌うことが、郷土愛であり、愛国にも通じるからこそ、「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」は刊行されたのではないかと、筆者には思える。
だが、時代の歯車は「国を愛する心」をも、闇へと飲んで行ったのである。
本書の自序にこう書かれている。

「自作唱歌「忠犬ハチ公」を主題に、ビクター会社が教育レコードを吹き込む事に、相談が決定したまま、世の中は事変色に塗りつぶされて待機の姿となつた。しかしやがて平和克復の暁には、日本の津々浦々は勿論、世界的に紹介されるものと期待される。」

しかし、ハチ公唱歌は時のなかに埋もれていった。
以下に、歌詞を引用する。

一、
逝きしあるじと
知らずて待ちし
尊き心
銅像(かね)にぞのこる
学べや人々
その魂を

二、
あるじの恩を
忘れぬ忠犬
天地と共に
永遠(とは)にぞ朽ちぬ
仰げや人々
その俤を

三、
富士と桜と
ハチ公こそは
日の丸かざす
吾等が誇り
讃へよ人々
御国(みくに)の宝


三、「忠犬ハチ公の歌」(島田馨也作詞)
詳細/出典は「渋谷駅100年史忠犬ハチ公50年」収録の「ハチ公アルバム」より。
楽譜の現物未確認の為、制作年等不明。写真には四枚の楽譜が写っており、題名は三枚「忠犬ハチ公の歌」、一枚「忠犬ハチ公のうた」。一番手前と奥の楽譜に島田馨也作詞とあり、作曲者は四枚とも異なる。手前より一番目の楽譜には、大津三郎作曲とあり、二番目には作詞者の名はなく、作曲は南雲壽千代(?)と読める。三番目にも作詞者の名はなく、昭和40年4月10日作曲の書き込みあり、すぐ下にタロの(?)――お母ちゃん作曲とある。四番目には、作詞島田馨也、作曲阿(一時不明)晴冶(?)と読める。楽譜はいずれも重ねてあり、手前のものも下が切れていて全部が読み取れないが、いずれも歌いだしが「あめのふるひも かぜにひも」とあるようなので、作詞者は全て島田馨也とみてよかろう。
以下に、読み取れるだけの歌詞を記す。

一番
「あめのふるひも かぜのひも あさに ひぐれに おおふつて(尾をふって、か)  あるじおもいの ハチ公が……(以下読みとれず)」

二番
「ひとといぬとは いいながら……(以下読みとれず)」

三番
「かわい……(以下読みとれず)」

四番

「きえた……(以下読みとれず)」

五番
「はなの……(以下読みとれず)」

歌詞は五番まであるようである。


ハチ公野良犬説


 ハチは後年、渋谷駅界隈の野良犬と化していた、とはよく言われる話で、映画「ハチ公物語(松竹)」でも、そのように描かれている。映画の、植木屋「菊さん」が急死し、ハチが野良犬になってしまったというのは脚色であって、実際には菊三郎氏は急死していないし、ハチも野良犬にはなっていない。
 上野先生に深い恩のある菊三郎氏は、未亡人から託されたハチを、献身的に世話した。それは、先生への恩ばかりでなく、ハチを愛していたからでもあろう。東京へ着いたハチを受け取りにいった菊三郎氏であるし、先生の家へ出入りしているときからの、親しいつきあいでもあった。
 菊三郎氏は、よくハチの毛皮を梳いてやっていたので、ハチはいつも美しい毛なみを保っていた。弟の友吉氏も、兄に代わって散歩へ連れ出してやった。胃腸の弱いハチは、食事には一層気を遣わねばならなかった。家族はコロッケを食べて、ハチは牛肉を食するという献立があったようだ。
 また、夜になると、仕事の終わった菊三郎氏が、ハチのさみしい気持ちを慰めるため、しばしば表へ連れ出した。工具店へ出かけるお供をさせたのである。菊三郎氏は無口な人であったそうだが、それが、やはり無口なハチとよく似ていたという。
 それでも、そうそうハチにばかりかまけていられないし、秋田犬の運動には時間と体力が必要である。昼間は放し飼いにしておいて、ハチを好きに歩かせていた。ハチは朝食を食べずに渋谷駅へ通う習慣になっていて、新聞に報道されてからは待遇もよくなり、駅へいる時間が長くなってしまった。察するに、半分は居心地よくなったハチの意思、もう半分は駅の名物となっていたハチを引き止める為の駅の意思もあったことであろう。
 しかし、夜にはきちんと、菊三郎氏の自宅へ帰っていたようだ。(最晩年には、夜も駅に居ることが多くなったらしい。)
 ハチを野良犬であったというのは、献身的に面倒をみた、菊三郎氏はじめ、小林家の人々に対して失礼であろうと思う。ハチを世話してやった人々は、他にも沢山いて、そうした愛情に包まれて暮らしていたのがハチ公なのである。


ハチ公忠犬否定説について


美談があれば、それを貶めようとする者がいるのは世の常で、それが好意的な、正当な考証によるものならばいざ知らず、たいていの否定説はその説の拠り所も曖昧だ。ここに幾つか、その否定説についての考証をしてみたい。

一、ハチ公軍国主義利用説
 ハチは、昭和の軍国主義に利用され、忠犬にまつりあげられた犬であると、よく言われる。確かに、そういう雰囲気は皆無であったとは言い切れないが、果たしてどこまで軍部が介入していたか、甚だ疑問である。
 ハチが新聞に紹介されたのは昭和七年であるが、この年が満州事変のあった年と重なることから、軍部の国策として「忠犬」美談を流したのではないか、という説を読んだことがあるが、はたしてそうだろうか。そもそも新聞にハチの話を投稿したのは、斎藤弘吉氏であった。斎藤氏は日本犬保存会を設立した人で、軍部に関係のないのは明白である。投書した動機も、ハチが駅員にいじめられ、不憫であったからだと書き残している。それに、前年の昭和六年には秋田犬が天然記念物指定を受けており、どちらかといえば、満州事変よりもこちらとの関連を見るべきであろう。おそらくは、日本犬保存運動の宣伝、秋田犬の紹介という効果も期待していたのではないか。
 また、銅像であるが、生前に建立されるに至ったいきさつは、ハチ公人気を狙った詐欺が行われ、そのいざこざを解決する為に急ぎ製作されことになったので、年譜中にも紹介した通りである。その銅像の制作費も、一般の善意による募金であり、子供から海外の人まで、多くの寄付があった。軍部が意図的に操作した気配は微塵も無いし、銅像建設に陸軍省や海軍省は関係していなかった。
 「忠犬」という呼び名にしても、確かに軍国ムードから考え出された部分もあるかも知れないが、「忠」という思想は、「孝」や「義」と共に、古くから日本人の道徳思想としてあるもので、この文字がついたからといって、即「軍国主義」と受け取るのも乱暴な話である。
 つまりは、幾分かその時代の思想と無縁では無いにしても、殊更に軍国主義利用を強調するのは、却って史実を歪めているように思う。戦後、まだ混乱の覚めやらぬ昭和二十三年に、はやくも銅像が復興されたのも、それだけハチ公の優しい心を、人々が懐かしんでいたからではないか。その意味ではむしろ、ハチ公の銅像は平和のシンボルと言えるだろう。

(ハチ公と軍国主義の関係については別項に詳述した。)

二、ヤキトリ説
 ハチは、駅へ先生を迎えに来ていたのではない、食い物欲しさにやって来たのだ、という陰口は、ハチの生前からささやかれていた。現在では、この説が真相のように言われている風潮さえある。しかし、こういった問題は、きりのないものだ。どう言おうとも、犬であったハチが、自分の気持ちを話せない以上は、どこまでいっても憶測でしかない。だが、残された資料から、より真実に近いものを、導き出すことは出来ぬわけでもない。
 ハチが、なんのために渋谷駅へ通っていたのか、それは分らぬが、少なくとも食い物目当てではないのは確かだ。何故というに、食い物が貰えたから駅へ来ていたのではなく、ハチが駅へ来ていたから、食べ物を与えられるようになったからだ。こういうと、いかにも詭弁のように思われるであろうが、ハチが駅へ通いはじめた当初は、誰もかまいつけてくれなかったのである。それどころか、邪魔者呼ばわりされて、駅員には虐待されるし、子供や屋台のおやじからも、いじめの対象にされていたようだ。ハチに対し、好意的に接してくれる人も皆無ではなかったが、そうした一部の人を除けば、ハチはぞんざいに扱われていたのである。
 駅員は水をかけたり足蹴にしたり、子供らはふざけてハチをなぶりものにするし、屋台からは商いの邪魔だと追い払われる。おとなしいハチは、抵抗をしないから、らくがきをされたり、高価な首輪を持ち去られたりもする。畜犬票を安産のお守りだといって、抜き取る人もあったようだ。その為に、野良犬と間違われ、捕獲人に捕まることもしばしばであった。
 こうした状況を哀れんだ斎藤氏が、新聞に投書をすると、新聞社は面白く書きたて、あっという間にハチは有名になってしまった。
 すると、駅はハチを労わるようになり、わざわざ寝床まで拵えてやった上に、ハチ公の世話係りまで用意する始末。新聞を読んだという人が、食べ物をもって来駅しだし、金子を持参する人も増えた。こうなると、今度は食い物目当てのいやしい犬であると陰口をささやかれ、誠に人間とは勝手なものである。
 ハチが、本当に先生を迎えにいっていたのかどうかは分らない。中には、ハチは利巧な犬であるから、先生の帰らないことを薄々感づいていたろうと言う人もいる。
 屋敷は今や人手に渡り、他に先生との思い出の場所といえば、毎日のように行き来していた渋谷駅であった。かつての記憶を偲ぶよすがとして、駅へ通っていたのかもしれない。
 どちらにせよ、ハチが優遇されるようになるまでは、むしろ駅では虐待を受けていたし、食い物を目当てに出かけていたという説は、その根拠に欠ける。
 小林家で与えられる食事が充分でなかったという人もあるが、それが誤りであるのは、先に紹介した通りであるし、胃腸の弱いハチであるから、我々が思い込んでいるほどの大食ではなかったのではないか。
 弁当やパンを与えても食べなかったが、犬の好物である肉食が入っていなかったからだ、というのは、ハチ公の「動機」云々の前に、単なる嗜好の問題であり、これをどうこういうのからしてお門違いである。
 また、胃袋からヤキトリの串が出てきたのを、忠犬否定説の決定的証拠ととる人もあるが、これなどは濡れ衣にも等しい。ハチが屋台からヤキトリを貰っていたのは事実である。しかし、串が胃袋から出てきたのは、だれかが串のままハチに食べさせたという痛ましい事実を表しているのであって、それだから食い物目当てであったという証明にはならぬ。
 ハチは、駅での待遇が良くなってから、居つくようになったのは本当であろう。食べ物を貰ったり、人にかまってもらったりするのが嬉しかったのでもあろうが、それはあくまで「結果」であり、「動機」ではない。ハチが、なぜ、駅にいじめられてでもやって来たのか、その本当の理由は分らない。ハチしか知らないのだから。けれども、ハチの気持ちを、深く察してやったとき、はたしてハチを、いやしい根性であったと言い切ることが出来るのだろうか。

三、勘違い説
 甚だしいものになると、ハチがかつての習慣を、動物らしい単純さで繰り返していたに過ぎないのを、人間が勝手な解釈をしたのだ、という説さえある。これにしても、ハチの紹介者である斎藤弘吉氏が、単純な勘違いをするほど、動物、ことに犬に関して無知であったとは思われない。ハチの足跡を追って行けば、理解できる行動であったろう。喜怒哀楽の感情を持っているのは、なにもこの世に人間ばかりではない。犬という生き物は、いや動物というのは、我々が思っている以上に、きめ細やかな感情を持っている。それは、動物と深くふれあった者ならば、誰しも知っていることであろう。
 あらゆる動物の感情を、「動物の習性」と判断するのは、人間の高慢ではなかろうか。


浅草におけるハチ公


 上野家が離散し、ハチ公が最初に預けられたのは、日本橋の呉服商であるという。出典は岸一敏の「忠犬ハチ公物語」で、日本橋は夫人の親類であった。
 日本橋時代のことは、あまり知られていない。多くのハチ公年譜でも、日本橋にいたことは省いてある。「忠犬ハチ公物語」の著者は上野博士の門弟である。ハチ公の生存中に執筆、刊行された本で、かなり詳しくハチ公のことを書いており、後の当事者の証言とも合致するところが多いのをみても、関係者へ取材をしたものと思う。
 これによれば、ハチ公が日本橋にいたのは、ほんのわずか、半月から一ヶ月位のようである。七月中旬には浅草へ移されている。
 さて、よくいわれるのが、浅草に預けられたその日に、ハチは綱を食いちぎって上野家へ帰ったという話である。
 ところが、小林友吉氏は、晩年になってきっぱりと否定している。
 浅草へは車で行ったのだから、道は分らなかった筈であると。
 「忠犬ハチ公物語」にも、同様の描写があり、

「渋谷駅へはどの道を通つて行くのか、来るときには、歩かずに自動車に乗つて来たものですから、さつぱり見当がつきません。」

 また、浅草高橋家では、土地に慣れぬハチが迷子にならぬよう、つないでいたことも書かれている。散歩のときも、綱で曳いていた。ハチは野放しになっていなかったのである。ならば、浅草から上野家へは一度も逃げ帰ったことはなかったのが事実であろう。
 さて、友吉氏は、浅草にいた年数――定説では二年――にも疑問を発している。
 半月いたかどうか、という証言がある。浅草にいられなくなったハチを、上野家新宅が完成するまでの間、小林家が預っていたという。引き取りに行ったのが大正十四年の夏であったと。
 だが、「忠犬ハチ公物語」には、高橋家で雪の散歩にてこずる場面が詳しく描かれており、これも高橋家の証言をもとにしたのならば、一考を要する問題である。それに、ハチを妬んだ近所との喧嘩もあったといい、半月ではあまりに短いのではないか。
 上野家が完成したのは、昭和元年頃。それまで小林家で預っていたのは本当であろう。だが、実際にいつからなのかを判断するのは難しい。


上野夫人について


 上野夫人は、何故ハチと別れて暮らさねばならなかったのか。
 夫人は、犬嫌いであったと考えられていて、斎藤弘吉氏もそのように書いているが、実際はそうではなかったろう。
 夫人の、ハチへの愛情は、強く、深いものであったと感じられるからだ。
 夫人は、上野博士の内縁の妻であって、籍には入っていなかった。(これは、博士の意思ばかりでなかったろうと思われる。家と家のつながりが、今よりも密接で、家長や本家が重要視された時代である。)
 その為に博士の急死後、夫人は、法律上一切の財産を相続する権利を持たず、屋敷を立ち退くこととなってしまった。(養女夫婦も財産を相続していなかったので、やはり上野家の籍には入っていなかったようだ。養女つる子さんは、夫の姓を名乗っていたので、戸籍上は嫁として上野家を出たことになっている。)
 当時、女ひとりで暮らしをたてていくには、容易ではない。まして、犬(それも大型犬三頭)が一緒である。一時の寄宿住まいの間、犬たちを他所へ預けなくてはならなかった。
 ジョンとハチは、夫人の親類である、日本橋の呉服商へ。
 エスに関しては、他所へ預けたのか、手元に置いていたものかは、それを示す記述が残されていないので分らない。
 日本橋でハチは、ジョンととうとう生き別れになってしまう。
 何処へ移されたのかは分っていない。気性の温順なジョンのことだから、他の貰い手が決まったのであろう。どうかその第二の飼い主が、良き人であったと信じたいものだ。
 ひとり残されたハチは、毎日繋がれてばかりである。ある時、小僧が綱を解いてやると、嬉しさのあまり店内を駆け回り、この粗相から再び他所へ移されることになる。第二の寄宿先は、浅草にいる夫人の縁者であった、理髪用椅子の製造をしていた高橋家である。
 高橋家には二年いたというのが定説になっているが、小林友吉氏は、半月もいなかったのではないかと証言している。
 浅草にいられなくなったハチは、しばらく小林家に飼われていたようだ。
 その間、上野夫人は、門下生たちの心遣いによって、どうにか暮らしを保っていた。門下生たちは、夫人の寄宿先を手配し、上野邸の売り払われた家財を買い戻した。その間の夫人の苦労は、筆舌に尽くしがたいものであったろう。
 夫人の経歴に関して、詳しいことは分らぬが、茶道裏千家の出身であったといわれ、博士と死別してからは茶道で暮らしていたらしい。
 夫人についての詳しいことは、ほとんど伝えられていない。上野博士を失ったかなしみも、世間の同情はただハチ公にのみ注がれていた。
 斎藤弘吉氏は、ハチ公が有名になると、何故お前がハチを引き取ってやらないのかと、非難もされたらしい。(世間でも存外ハチ公が小林家なる主のあるを知らず、野良犬だと思っていた者も多いようである)。資料には残されていないが、上野夫人もまた、同様の誹謗を受けたかも知れない。
 ハチが生涯に、しっぽをふってじゃれついたのは、ただ上野博士と、上野夫人のふたりきりであったという。幼少より馴染みの深い小林さんにさえ、そういうじゃれかたはしなかったというのだ。もし、夫人が犬嫌いであったなら、たとえ家族であっても、ハチはそこまで慕わなかったであろう。ハチにとって上野夫婦は、「お父さん」であり、「お母さん」であったに違いないのだ。
 ハチが死んだとき、夫人はその遺体にかがみこんで、「つらい思いをさせて・・・」と涙をこぼした。
 ハチ公は、夫人の希望によって、上野博士の墓の傍らへ葬られた。そして、夫人もまた後年、「上野のそばに葬ってほしい」と願った。しかし、その願いは聞き届けられなかった。青山墓地に眠っているのは、博士とハチ公だけである。
 映画にもなり、近年ドラマにもなったハチ公物語では、上野家へ慮ってか、夫人の内縁の妻たるいきさつを省いている。観る者は、何故夫人が屋敷を出るのか、どうしてハチを他所へやってしまうのか、一向に分らない。また、博士ほどの絆を、夫人とハチ公の間に考えることも出来ない。結果、夫人の行為はどこまでも不可解でしかなく、脚色によって引き立てられたハチ公の哀れさに対する、いかんともしがたい怒りは、夫人へ向けられてしまう。
 映画やドラマの出来云々は別として、何ゆえ夫人は、ここまで咎をひとりで受け持たねばならないのであろうか。苦しみに苦しみぬいた夫人を、どうしてまた物語にまで、こんな役をふられねばならないのであろうか。あまりにむごいと思うのである。


参考文献・引用


林正春「ハチ公文献集」収録の記事、その他