ハチ公詳細年譜


○大正十二年十一月、秋田県秋田郡二井田村大子内(現在の大館)、斉藤義一宅に生まる。*
父犬・大子内山(おおしないやま)号、母犬・胡麻(ゴマ)号。大子内山号は名犬・一文字号の子で、ハチはその孫にあたる血統である。
兄弟犬は、ハチ含め牡四匹。内二匹は山形、残る一匹はハチと同じく東京へと貰われて行った。

東京大学農学部教授、上野英三郎氏の求めに応じ、元門下生である世間瀬(ませ)千代松氏(※1)の依頼を受け、栗田礼蔵氏 (※2)が知人であった斉藤家より秋田犬の子犬(ハチ)を貰い受け、上野家へ世話する。


(※1 当時、大館駐在の秋田県耕地課長を務める。)
(※2 当時、秋田県庄耕地課、大館駐在技師を任じる。上野博士を恩師とす。)



*ハチ公出生の家は、ハチの没後あきらかになった。それまでは、我こそは親元であると名乗りをあげる者が跡を絶たず、醜い争いにさえなった。(年譜中昭和九年の項参照の事。)
生家の判明したいきさつは、昭和十年の項に譲る。






○大正十三年一月十四日、栗田氏手続きのもと、ハチ東京へ出立す。客車便大館駅発送。急行七〇二列車(※3)を利用したものと思わる。(「ハチ公文献集」より)
ハチを乗せた列車は、一月十五日、東京方面を襲った強震(※4)の影響の為、定刻より遅れて上野駅に到着する。受取人は上野家出入りの植木職人・小林菊三郎氏。(博士は葉山の別宅に静養中にて不在。)*


(※3 大館駅発、午後三時二十分、上野駅着、翌日午前八時五十分。)
(※4 関東大震災の余震。)



*長きに渡り、ハチの到着した駅は渋谷駅であるとされてきた。渋谷駅のハチ公に関する荷札が残されているが、これは後になって当時の渋谷駅長の拵えたものである。


渋谷に暮らす上野家の犬となり、ハチと命名され、博士の愛育のもと成長する。
同家住人、上野博士、夫人、養女夫妻。書生。女中数名。
同家愛犬に、ポインター種のジョン(八歳)とS(エス)(七歳)。ジョンは子犬ハチの面倒をよく見た。また、書生の尾関才助氏(※5)は「犬日記」をつけて、ハチの日々の記録を書いた。


(※5 九州出身の書生。愛称は「才ちゃん」。上野博士の没後、郷里へ帰って後に夭折した。)


ハチは胃腸が弱く、はじめの六ヶ月は病気がちであった。三月まで博士のベッドに寝かされた。二月と六月に、生命が危ぶまれる程病状が悪化する。

二月、養女夫妻に娘生まる。ハチがよくあやした。

成長したハチは、ジョンとSと共に、博士を送迎するようになる。*


*ハチが博士を送迎した場所は、渋谷駅だけではなかった。
博士の勤める大学校門まで送って行く日もあったようである。
というのも、博士が常に渋谷駅から出勤していたわけではないからだ。そのいきさつは、「ハチ公文献集」の第二章中「渋谷駅の見送り」に詳しい。
『梅雨があがると、ハチは健康を取り戻す。
大正十三年七月。ハチは博士を渋谷駅まで見送りしている。
ジョンとSも一緒であった。送り迎えするのは二ヶ所であった。
駒場の東京大学農学部校門がその一つ。もう一つが渋谷駅である。
渋谷駅はハチ公口と、その前にあった市電の終点があり、週数回の西ヶ原農事試験場に出向くときには山の手線を、農商務省にでかけるときには市電をつかっていた。
朝見送った場所に、夕方出迎えに行く、異なる三ヶ所をよく記憶していた。
それはハチばかりでなくジョンもSも変わりなかった。』(「ハチ公文献集」より)






○大正十四年五月二十一日、上野博士、講義中に急逝する。脳溢血による。この日博士を農学部校門まで送ったのはハチのみ。告別式、二十六日。*
四十九日を待たず、上野夫人は渋谷の家より他所へ移る。
夫人は博士の内縁の妻であったので、法律上上野家の財産・屋敷を相続する権利が無かった為である。夫人と共に博士の飼い犬も立ち退きを迫られる。


*博士が急逝した日、それを知る由もないハチは、農学部の校門まで迎えに行き、暗くなるまで待ち続けた。告別式が終わっても、三匹の犬たちは、駅まで迎えに行くのである。
ハチは博士の死後三日間、出されたエサに口をつけず、物置に入り込んで絶食する。
告別式の夜のハチについて、
「庭からガラス戸を押し開けて、部屋へ入りこみ、棺の下にはらばいになって動かなかった。上野の夜具を物置に入れると、一しょに入って、どうしても出なくて困った」
という夫人の証言が伝えられている。(「ハチ公文献集」参考)



ハチとジョンは、夫人の親類である日本橋の呉服屋へ預けられる。(ジョンはいつの間にか他所へ移され、消息不明になる。)
此処で充分な運動の得られなかったハチは、綱を解かれた時に店内にあがって駆け回り、その粗相から他所へ移されることになる。

日本橋にいられなくなったハチは、夫人の親類で、理髪用椅子を製造する、浅草の高橋宅へと預けられる。(七月の中旬頃という――岸一敏作「忠犬ハチ公物語」より)
高橋家の愛犬エスと親しくなり、同家の人々にもよく面倒を見て貰ったが、育ち盛りの秋田犬であるハチにとって、満足な運動量は得られなかった様子。
また、ハチを妬んだ近所の人々と対立が起こり、喧嘩騒動が発生したのを期に、ハチは再び他所へ移されることになってしまう。*


*浅草には二年いたというのが定説であるが、ハチを浅草まで迎えに行った小林友吉氏(※6)は、半月もいなかったのではないかと証言を残している。
また、浅草へ預けられたその日に、綱を食いちぎって渋谷へ逃げ帰ったという説もあるが、これも友吉氏は否定している。
『逃げ帰るほどハチ自身、渋谷までの道順がわかれば、友吉さんが迎えにいかなくても、ハチだけで逃げ帰ったはず。
浅草にはクルマでいったのだから、帰り道はわからない。
だから引き取りにいったのだと友吉さんは、浅草から逃げ帰ったりしていないといった。』(「ハチ公文献集」より)
この証言によると、浅草よりハチを引き取った当時(大正十四年)、上野未亡人の世田谷新宅はできていなかった。その為、しばらくの間、小林さんの家でハチを預かっていたという。
一方で、浅草の高橋家で雪の日の散歩に難儀する話も伝えられており(岸一敏「忠犬ハチ公物語」)、浅草滞在の期間は、一考を要する。
尚、未亡人の世田谷の新宅が出来たのは、昭和元年頃である。



(※6 上野家出入りの植木職人・小林菊三郎氏の弟である。)


浅草を後にしたハチは、世田谷へ移った上野家へ帰ることになった。
此処で、かつて生活を共にしたポインターのSと再会するも、エスはハチを咬む犬に変わってしまっていた。
引き運動の不足していたハチは、綱を解かれると、度々近所の畑へ入り込み、作物を荒らしたので、農家より苦情が出る。
こういったことから、ハチは上野家へ長く留まることが出来なくなってしまう。





○昭和二年初秋、渋谷駅にほど近い、富ヶ谷の小林菊三郎宅 (※7)へ移り、同家の犬となる*1。同家住人、菊三郎夫妻、息子四人、娘・四人、弟友吉氏。友吉氏はよくハチの面倒を見、散歩の役目を引き受けた。
ハチは渋谷駅へ通うのが日課になる。*2


(※7 渋谷駅より二十分程度の位置にあった。)


*1 上野夫人は、後年、犬嫌いであると誤解を受けたが、実際はハチを愛し、手放したくなかったのである。
しかし、博士との思い出の土地である渋谷を、ハチが離れられないのを知っていたので、菊三郎氏へ託すことにしたのだ。
『ハチが世田谷でも、どこでも、落ち着かないのを知っていたのは上野未亡人であった。
懐かしい思い出のある渋谷駅を求めてやまないハチの心を、同じ悲しみを持つものとしてよくわかった。そのハチを小林菊三郎さんの手にわたすのに迷った。
(略)未亡人の「上野の大事な形見を預かってくれ」というのに、小林さんが「大事な形見を預かって、もし間違いでもあったら、いいわけが立たない」との返事に「じゃああげる」とハチを渡したのは、博士を懐かしむハチが、あまりにせつなかったからである。/
ハチには、そんなことは、どうでもよかった。歩いて行けるところに、渋谷駅があれば到底忘れられない博士に会えると思った。』(「ハチ公文献集」より)


*2 顔馴染みの小林さんの家は、ハチがようやく得た安息の場所である。
ここでハチは、残りの生涯を、悠々自適に過ごしたようにも思われる。それも、小林さんの献身的な面倒あってのことである。
ハチの犬小屋は、玄関のすぐ横にあって、訪ねてきた人と最初に顔を合わせるようになっていた。
家のすぐ裏には精肉店があり、子供のいない店主夫婦は、ハチをたいへんに可愛がった。
近所の銭湯へは、子供たちを送迎した。湯屋の前で、じっと皆の出てくるのを待っているハチであった。ほのぼのとしたハチの余生がうかがい知れる。
それでもハチは、上野博士が忘れられなかったと見える。渋谷駅通いの実態については、
『ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。暫らくすると戻る。夕方は四時近くなると出かけ戻るのは午後五時過ぎから六時頃であった。これは、故主、上野博士の朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった。』(「ハチ公文献集」より)






○昭和三年五月、斎藤弘吉氏が日本犬保存会を発足し、滅び行く日本犬を保護する為に、日本犬の調査を開始す。同年七月、偶然斎藤氏はハチの存在を知る。八月、斎藤氏によって、日本犬保存会第一回犬籍簿にハチの来歴が掲載される。「ハチの記録はこれが最初である。」(斎藤弘吉「日本の犬と狼」ハチ公年譜より)




○昭和四年春、ハチはひどい皮膚病にかかる。一時は命も危ぶまれたが、菊三郎氏の必死の看護により奇跡的に回復。この頃、ハチの左耳が垂れる。渋谷界隈のボス犬となりつつあったハチは、よく喧嘩の犬を仲裁した。その時左耳を咬まれた傷が、病後の衰弱により垂れるようになったという。尚、傷を受けたのは「二、三年前」というから、昭和元年頃。*

*ハチの垂れた左耳は、まったくの後天的なものである。これを先天のものと思い、ハチは雑種と誤報されることがしばしばあった。





○昭和六年七月十七日、日本犬の秋田犬が犬としては初めての天然記念物に指定された。大正九年、制定に向けて渡瀬庄三郎博士の調査が行われたが、当時秋田犬の複雑な雑種化により断念。以来、地元愛犬家たちの努力により、和犬の姿へと復刻が進められ、ようやく悲願達成となった。





○昭和七年九月、日本犬保存会会報「日本犬」第一巻二号にハチの写真と履歴の詳細が掲載される。斎藤弘吉氏による。同氏投稿により*、十月四日付東京朝日新聞朝刊に、「いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間」とハチが報道され、一躍有名となる。時に、ハチは十歳(数え年)。


*斎藤弘吉氏の証言に次の一文がある。括弧補足は管理人による。
『(ハチ公は)駅員やヤキトリ屋にいじめられる。かわいそうなので、何とかしてやろうと、このことを日本犬の会報に書いた。/しかし、多くの人に知ってもらうには、と、ふと思いついて朝日新聞に同じものを投書した。(略)しかし朝日新聞の記者は、私のところへは来ず、直接、渋谷駅へ写真班をつれて取材に行ったらしい。』(「ハチ公文献集」収録「週刊朝日」の「銅像は何も云わないけれど」中「第二の証言」より)



十一月六日、日本犬保存会主催「第一回日本犬展覧会」(銀座松屋屋上を会場とす)にハチは招待犬として招かれる。日本犬保存普及の功績による。
「毛色薄黄、肩高二尺一寸三分、体重役十一貫、尾左巻、と前記『日本犬』に誌されている。」(「斎藤弘吉「日本の犬と狼」ハチ公年譜より)





○昭和八年六月、帝展彫刻部審査員である安藤照氏から、友人であった斎藤弘吉氏のもとへハチ公モデル依頼がある。ハチは夏の間菊三郎氏に伴われ、安藤氏のアトリエ(代々木初台)へ通った。八月末にはほぼ原型が完成。
十月、彫刻家安藤照氏製作の、ハチ公等身大石膏像が、帝展に出品され、話題を呼ぶ(出品期間は十月十六日から十一月二十日まで)。

十一月三日、第二回日本犬展覧会(上野公園前広場開催)に、ハチ公は二度目の出席。観覧者に絶大な人気を博した。
十一日、ポチクラブ名誉委員に推薦され、会員賞のメダルを首輪につけて貰う。*
十七日、ハチ公人気沸騰により、渋谷駅はハチの身柄保護の必要を感じ、渋谷警察署出頭の上、身元調査が行われた。これにより、はじめてハチ公の飼い主が富ヶ谷在の植木職・小林菊三郎氏であることが確認されたのである(それまでは、現在のハチの身元を預る人間が、はっきりと分っていなかった)。
三十日には、吉川駅長とハチ公世話係り佐藤氏の両人が、上野夫人宅を訪問した。

*この頃のハチ公人気は、ハチに関連した商品が売り出される程で、一世を風靡した。
渋谷駅前には、ハチ公せんべい、ハチ公チョコレート、またはハチ公焼きといった菓子が売り出され、ハチ公の唱歌(※8)のレコードや、三越では雛人形が作られ、はてはハチが映画「あるぷす大将」(昭和九年)に出演し、話題を呼んだ。



(※8 サトウ・ハチロー作詞、平岡均平作曲「ハチ公の歌」)





○昭和九年一月一日、渋谷駅でハチ公像入り記念スタンプが使用された。九日に駅長から銅像計画の具体案が発表。ハチ公銅像建設会が発足され、(発起人、日本犬保存会、斎藤弘吉、吉川渋谷駅長、安藤照諸氏その他。)募金活動始まる。*


*ハチが有名になれば、その名声を利用して一儲けを企む人間が出て来る。ハチに関連づけた商品を発売したのもそうだが、もっと質の悪いものもあった。ひとつは親元争いである。秋田県大館では、次々と、我こそはハチの親元であると名乗りを上げる。ハチの斉藤義一宅出生が判明するのには、ハチの没後まで待たねばならない。更に、あやしげな老人が現れて、上野家からハチに関して一切を託されたと称し、ハチの木像を造る為にと、渋谷駅長に署名させた絵葉書を売り始めたのである。これは一番始末が悪かった。
『木像宣伝をはでにやられて困ったのは安藤君で、なんとか私が発起して早く銅像を建てさして下さいという。私は、人間でも生きている時に銅像等作られることは遠慮すべきで、ハチをもっと幸福にする設備なればともかく、銅像は死んだ後に発起するからと答えているうちに、この銅像騒ぎが収拾つかなくなってしまった。』(斎藤弘吉著「日本の犬と狼」より)
やむを得ずハチの生前に銅像建立を決めた斎藤氏は、木像騒ぎの老人と交渉をする。それは、像は銅像とし、制作にあたるは安藤氏、木像計画の為の絵葉書売上金を寄付し、合流すること等の条件であった。老人は一銭も出さぬと拒否したので、木像騒動の関係者から渋谷駅長に手を切らせ、斎藤氏をはじめとする銅像建設発起人が、募金を集うことになった。



二月六日、ハチ公突然発病し、重態となる。
以前より掛かっていたフィラリアと、腹膜炎を併発した為である。獣医師が招かれ、上野夫人も来駅。見舞い客殺到。同月十九日付やまと新聞に、詳細記事掲載、同紙に「大分工合が良くなり二日程前からちょいちょい散歩にも出掛けられるやうになつた」と報告されている。
首輪に、「取扱注意」の札と、「病気ノ処全快ニナリマシタ故食物中(生肉)御遠慮願ヒマス、焼鳥其他不消化物ハチギツテ差上ゲテ下サイ」と書いた札が下げられる。

二月十三日から三月十日まで、「ハチ公の夕」開催準備に関係者は忙殺される。

三月十日、神宮外苑の日本青年館において、銅像建設募金募集演芸大会「ハチ公の夕」催される。プログラムは、ハチ公を描いた浪曲、漫談、童謡など。ハチ公も出席。入場者は約三千人の満員で、盛況を博す。
十五日には、ついにハチ公の名がときの皇太后陛下のお耳に入り、臣下にご下問があったと伝えられた。

四月二十一日、渋谷駅頭において、安藤照氏製作の、ハチ公銅像除幕式行わる。
寄付金の収入額、千四百三十一円四十四銭。

五月、安藤照氏製作のハチ臥像と共に、斎藤弘吉氏執筆のハチ事跡概要が、天皇・皇后・皇太后、三陛下に献上される。先のご下問に対し、「陛下に直接犬をお目に入れるのはいかがなものか」という周囲の配慮により、安藤氏の像をお目にかけることとなった。

九月、上野公園で開催された第三回日本犬展覧会に、ハチ公は三回目の招待を受ける。これが最後の出席となった。

十二月、吉川英治原作の映画「あるぷす大将」に、ハチ公は特別出演。銀幕デビューを果たす。信州から出てきた主人公が、渋谷駅を通りかかり、ハチ公に遭遇。その忠犬ぶりに関心し、やきとりを与える、という場面のようである。





○昭和十年三月八日、午前六時過ぎ、ハチ公逝く。死因は老衰と肝臓病による。*1
数え年十三歳。(正確には、十一年の生涯である。)(※9)
通夜には、ハチ公の一粒だねである、息子のクマ公(※10)も出席した。九日十日と、ハチ公像前に焼香が絶えず霊祭が行われる。*2
三月十二日、青山墓地でハチ公の葬儀行われる。この日大館においても蓮荘寺で慰霊祭があった。


(※9 数え年は生まれた年を一歳として数える。戦前の日本では、主に数え年が用いられていた。ハチは大正十二年の十一月生まれであるから、その没した昭和十年三月までを正確に数えると十一年の生涯となるわけである。)
(※10 ハチは小林家の近所に飼われていた、フォックステリアのデビーと恋仲で、その間に生まれたのがクマ公であった。デビーは、ハチより先に世を去り、それ以後ハチは、他の牝犬に心を移すことはなかったという。)



*1 ハチ公の死因については、長きにわたりフィラリアの悪化と伝えられていたが、黒川和雄著「犬の難病・フィラリア症の実態―今こそ知っておきたい」(小学館スクウェア出版)によって、当時ハチ公の解剖にあたった人物の証言が紹介されており、それによれば死因は肝臓病と判断されるとのことである。

*2 ハチの生家が判明するきっかけとなったのは、奇しき巡り会わせであった。昭和十年三月十日、農林省への用務の為に上京していた栗田礼蔵氏が、偶然にも渋谷駅でのハチ公霊祭と行きあったのである。栗田氏は、ハチ公がかつて自分の世話をした子犬であるとは知らなかった。農林省友人より、ハチ公が秋田県大館生まれ、上野先生の愛犬であったのを知らされた。
『奇しきめぐり合わせにびっくりした栗田さんは、そのことを昭和十一年、大館の斉藤義一さんのムラ未亡人に宛てた年賀状の末尾に書いた。それが糸口で、故義一さんの令息、現当主七郎右衛門さんの巌父才治さんから栗田さん宛てに、ハチ公についての問い合わせの手紙が出されることになる。(中略)この栗田さんの手紙が世に発表されるまで、正確な生家も分からなかったハチ公は、自らの死を栗田さんに知らせることで、ハチ公自身の運命を開いた栗田さんから再び、本当の生家を明らかにしてもらったということになる。』(「ハチ公文献集」より)




尋常小学校二年生の国定教科書(修身)に、「オンヲ忘レルナ」の題で、ハチの物語が紹介される。*
六月十五日、上野の科学博物館二階回廊において、ハチ公の剥製公開。

七月八日、秋田県大館駅前に、渋谷駅銅像と同じ原型による銅像が建立され、盛大な除幕式が行わる。


*「恩を忘れない」という表現に対し、斎藤弘吉や平岩米吉(動物生態研究家)等から、反対もあったようだ。
『死ぬまで渋谷駅をなつかしんで、毎日のように通っていたハチ公を、人間的に解釈すると恩を忘れない美談になるかもしれませんが、ハチの心を考えると、恩を忘れない、恩にむくいるなどという気持ちはあったとは思えません。あったのは、ただ自分をかわいがってくれた主人への、それこそまじりけのない愛情だけだったと思います。ハチに限らず、犬とはそうしたものだからです。無条件な絶対的愛情なのです。人間にたとえれば、子が母を慕い、親が子を愛するのに似た性質のものです。』(「ハチ公文献集」転載の斎藤弘吉著「愛犬ものがたり」より)

この教科書採用に関し、当時の軍国主義教育と結びつけて考える向きもあるようであるが、内容はハチ公在りし日のやさしい姿を描いており、不穏な点はない。また、教科書採用に関し、「生存している人物は扱わない」のが規則となっており、当時はまだハチ公生存中のこととて、会議でも議論になったという。結局、「人間ではなく犬である」ことから、例外とすることに決定した。






○昭和十一年一月一日、栗田礼三氏から「ハチ公は私が東京に送った」と通信があり、地元大館では再調査が行われ、ようやくハチ公の斉藤家出生があきらかにされた。(但し、まだ一部にしか伝わっていなかったようである。)





○昭和十二年三月八日、ハチ公の三周忌法要が営まれる。六月十三日には、ヘレン・ケラー女史が北海道へ向かう途中、大館駅停車の際に、此処がハチ公の出生地と聞かされ、感動の意をあらわしたという。――「忠犬ハチ公の事は、米国で知っていました。今そのゆかりの地を過ぎるに際し、感激の極涙がこぼれます……」と手真似をして感想を述べられた(小野進「忠魂賦・忠犬ハチ公頌賦」より。原文は旧かな)。




○昭和十九年十月、戦時中の金属回収令の為、渋谷駅頭ハチ公銅像の回収が決まる*。銅像別れの式が、同月十二日行わる。大館駅前のハチ公銅像も、続いて回収された。


*安藤照氏製作の初代渋谷のハチ公像は溶解されてしまったが、銅像来歴概要を記したプレートがわずかに残されていた。この発見は、テレビ東京「なんでも鑑定団」(平成十八年六月十三日放送)に出陳されたことによる。





○昭和二十年五月二十五日、大空襲の為に、斎藤弘吉氏の研究室焼失し、ハチの骨格標本失われる。ハチ公像原型は、安藤氏郷里へ疎開途中の東京駅にて焼失。安藤照氏、自宅にて焼死する。

終戦直前、渋谷駅前のハチ公像が、浜松の某工場において溶解されたという。





○昭和二十二年、ハチ公像再建の声があがる。





○昭和二十三年八月十五日、渋谷駅頭において、再建されたハチ公像の除幕式行われる。銅像製作は、安藤照氏長男士氏。





○昭和三十九年五月、秋田県大館駅前に、「秋田犬群像」建立される。





○昭和五十九年四月八日、ハチ公像建立五十周年ハチ公まつりにおいて、東大農学部農業工学部学生らの粋なはからいで、同学科にある上野英三郎博士の胸像とハチ公像が、時空を越え銅(かね)を通し、再会を果たす。





○昭和六十二年十一月十四日、大館駅前に、ハチ公像再建される。





○平成十六年十月十日、秋田犬保存会本部前に、ハチ公のブロンズ像「ハチ公望郷の像」が建立される。




年譜を編纂するにあたって


従来製作されたハチ公の年譜は、新聞に紹介され、有名になってからの記述に偏り、無名時代の行状を詳しく整理したものは無かった。
今回、この年譜を製作するにあたって、ハチ公に関する文献を網羅した「ハチ公文献集」をもとに、ハチの無名時代に関する記事を年譜としてまとめた。
また、斎藤弘吉氏によるハチ公年譜も大いに参考にしたが、その年譜中いくつかの誤りを訂正した。
更に、研究中発見されたハチ公資料から得た部分を今回新たに付け加えた。

年譜は、あくまでハチ公の履歴であるから、なるべく私情を入れぬよう努力したつもりである。ただ、ハチとその回りの人々、あるいはハチのいた時代を知る上での、てがかりとなるよう、いくつかの補足を設けた。
補足の文の多くは、「ハチ公文献集」からの引用か、もしくはその要約したものである。



※年譜中に主に引用した文は、主に「ハチ公文献集」による。
みだりに転載しないでください。