ハチ公コラム


◎ブログの記事から。

目次

 ○2010/3/8 「 ハチ公を通して見えてくるもの 」
 ○2009/9/9 「 ハチ公と道徳教育――戦前発行の「忠犬ハチ公物語」から 」
 ○2009/8/9 「 ハチ公を読み解く――「美談」 」
 ○2009/3/9 「 びっくりした館長 」
 ○2009/3/8 「 ハチ公命日、そしてサイト一周年 」

2010/3/8 「 ハチ公を通して見えてくるもの 」


 今日はハチ公の命日です。七十五回忌……、時空を超えてハチ公に思い馳せています。ハチ公は、どんな思いで、渋谷駅を出ていったのだろう?なにを考えながら、ひとりひっそりと、普段行きもしない場所へ向ったのだろう……。
 その思いを、資料と照らしあわせながら、自分なりに考えてお話もどきを作ったのが、去年のことでした。
 あのときは、たくさんの方からメッセージをいただいて、本当に励まされました!今まで、こっそりと運営していたサイトでしたから。とても嬉しかったものです!
 最近、ずっとサイトを更新できずにいました。申し訳ない次第です。
 これからも、ハチ公のことを伝えていきたいと思います!

 久しぶりに、ハチ公に関するエピソードをひとつ。

 ハリウッドの映画効果もあって、日本ばかりでなく、世界にもハチ公ファン急増中のようですね!
 ところで、ハチ公の時代にも、おそらく「ハチ公ファン」にかけては右に出る者はないであろうという、とても情熱的にハチ公を愛した人がおりました。
 当サイトでも度々ご紹介している、小野進さんです。
 小野進さんは、「ハチ公唱歌」の作詞者として、近年名前が知られるようになりましたが、この方は秋田県で教職の立場にあり、天然記念物調査委員も務めていました。ハチ公が有名になった当時は、大館の中学校で、博物を教えていました。自然を愛し、郷土を愛し、そしてハチ公を深く愛していたのが、その著作から窺い知ることができます。
 あまり知られていませんが、秋田犬が天然記念物として認定されるために、とてもご尽力なされた方なのであります。小野さんは、地元の愛犬家たちに秋田犬の保存を呼びかけ、ご自身は著作やラジオを通して、いかに秋田犬が素晴らしいかを広めていったのです。更に、天然記念物調査委員の立場からも、認定に向けて働きかけました。
 その努力が実って、昭和6年に秋田犬は日本犬初の、天然記念物認定を受けることになりました。

 ハチ公が世に知られる前、小野さんは秋田犬の素晴らしさを伝えるラジオ放送で、次のようにお話しています。

「(略)新田義貞の部将、畑時能の愛犬「犬獅子」が、山陽の外史に、不朽の名をうたわれたように「秋田犬」の名を、永久に世に伝えることを。これ又あこがれの一つ。しかし、私のユートピア、それは必ずしも、夢の夢でないことを信じたいものであります。」(原文旧かな 「秋田犬・奥羽北海の動物を語る」小野進 著より)

 そして、その後ハチ公が現れるに及んで、小野進さんは著書に「予言的中のよろこび」と記しており、その興奮が活字を通し、時間を越えて伝わってきます。小野さんにとって、ハチ公こそが「心のユートピア」であったのです。

 ハチ公に詩を捧げ、歌に詠んだ人は数多くいますが、ハチ公のかなしみを唄うだけでなく、詩の世界で上野先生と再会させてやったのは、小野進さんだけかもしれません。
 小野さんは、「黄泉の主従立体像」という詩のなかで、冥界のハチ公が鬼の力を借りて人間となり、上野先生と再会を果たすという、とてもドラマティックな物語を描いています。

 この詩をはじめて読んだとき、自分は思わず涙ぐんでしまったものです。
 ただ再会させるのでなく、ハチ公を人の姿にして逢わせてやるのが、心にくいですね。
 ハチ公はきっと、上野先生のペットではなく、家族――父と子であったのでしょう。
 なにも言わなかったハチ公が口をきけたら、どんなことをしゃべったでしょう。なにを伝えたろうな、と思うのです。あれこれ思い馳せるだけで、なんともいえない気持ちになってしまいます。

 ハチ公を愛した小野進さんは、その後も盛んに活動し、自然の保護や、動植物を愛する心を訴え続けました。しかし、その晩年はとても不遇であったと伝えられています。愛する妻子全てに先立たれ、ご自身もひっそりと世を去られたそうであります。

 ハチ公のことを後世に伝えていくことは、こうして、ハチ公と関わった多くの人々、世に知られていない人々の功績を伝えることでもあるのです。
 自分は、ハチ公はもちろんのこと、歴史に埋もれてしまった、「ハチ公の輪」を、もっと多くの人に知ってもらいたいと、強く思うのです。
 ハチ公に感動し、ハチ公から結ばれていった「人の輪」を思うとき、ハチ公は我々に、実に色々なことを教えてくれるものだと実感します。

 ハチ公を通して見えてくるもの――それを今後も伝え続けられる場所でありたいと思うのです。「忠犬ハチ公博物館」が。

2009/9/9 「 ハチ公と道徳教育――戦前発行の「忠犬ハチ公物語」から 」


 「ハチ公物語」というと、まず思い浮かべるのは松竹で作られた映画の題名でしょう。一方書物のほうでは、戦前に発行された岸一敏さんの「忠犬ハチ公物語」があります。これはハチ公の目線になって童話風にまとめられたお話で、「ハチ公文献集」にも度々引用され、当時のハチ公を知る上で重要な手がかりになっています。
 ところで、これとは別にもう一冊、同名の本が存在しています。それが、今回ご紹介いたします、「忠犬ハチ公物語」。昭和9年、ハチ公存命中の刊行です。
 この「忠犬ハチ公物語」は、47ページほどの「冊子」で、発行は小教春秋社、定価は十二銭。小教春秋社というのは、おそらく名前から察するに、教育関係の刊行物を扱っていたものであろうと思います。
 ハチ公が修身の教科書に採用されたのは昭和9年ですが、実際にその教科書が用いられたのは、昭和10年のハチ公没後です。
本書は、教科書に先駆けて発行されたわけであります。

 本文は、ハチ公のことが、物語風に紹介されています。上部に注釈の項があり、体裁が当時の教科書風になっております。また、付録として、「ハチ公に寄せた人びとの心もち」と題し、投書や手紙が紹介されています。
 内容は、教育用とはいっても、決して教訓的な書き方ではなく、動物のきめ細やかな心の持ち方が描写されている秀作です。本文巻末に、著者が別の雑誌に発表した動物随想が転載されており、それによるとこの方は、十姉妹、犬、猫、鳩と暮らしており、それぞれの生き物の関わりあい方をこまやかにとらえていて、動物好きであったことが伝わってきます。だからこそ、ハチ公のお話をまとめられたのでしょう。
 定価十二銭。薄っぺらな本だけれども、だからこそ、きっとたくさんの人に愛読されたことでしょう。

 全国からのハチ公へ寄せられた手紙を紹介した部分もまた興味深いものです。
お父さんやお母さん、先生、あるいは修身の時間にきいたと手紙に書いているお子さんが非常に多いのですが、学校では早くもハチ公のお話を聞かせていたのですね。また、家庭で、こうしたお話を聞かせるというのも、当時の古き良き団欒風景がしのばれます。
 面白いのは、あるお家から、飼い猫のチェリーがハチへ書いた手紙、という趣向で寄せられたものもあります。
 ハチ公の薬代を、兄弟連名(上は府立高商一年、下は三才)で送ってきたもの。
 まずい字ながらも、会社勤めの少年二人が寄付金を寄越したもの。
 色々な人たちからの想いが、ハチ公に寄られていたのです。

 なかには、ハチ公は大館産ならば、一文字号に似ているが、その血統ではないかと、早くもハチ公の血統を見抜いている人のお便りも、大館から届けられています。名前は出ていませんが、当時の秋田犬好きの方でしょう。

 修身の教科書に採用されたとき、「オンヲ忘レルナ」という題名が斎藤弘吉さんや平岩米夫さんから、動物は恩を返すというものではない、親子の情に通じる真心であると非難を受けました。
 それは、本当にその通りです。昔は、杓子定規に「恩」という字を解釈していた人も多かったでしょうから、斎藤さんたちが訴えた思いも、よく分ります。
 けれども、「恩」という字は、単純に「人から受けた優しさやお世話になった心を、いつまでも忘れない」気持ちでありましょうから、現代の思想が柔らかくなった時代においては、深く考えなくてもよいのではないかとも思います。

 現在では、この「恩」に過剰反応して、そもそもハチ公の教科書採用は、当時の軍国主義教育の一環である、と考えるのが通説になっているようです。しかし、果たして本当にそうでしょうか?
 ハチ公は「忠犬」という代名詞からも、度々「軍国利用説」が唱えられてきました。確かに、時代が下がるにつれ、必要以上に忠義が強調されたことは否めません。しかし、それはなにもハチ公に限ったことではなく、あの当時の色々なもの――昔の美談や武将などが、同じような憂き目を見たのであって、ハチ公のお話が、最初から軍国美談として作り上げられたというのではありません。
 さて、問題となっている教科書の内容を引用してみましょう。

 ハチ ハ、 カハイヽ 犬 デス。生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人ニ ヒキ取ラレ、 ソノ家 ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、 大ソウ ヂャウブ ニ ナリマシタ。サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ ニ 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日 カヒヌシ ヲ サガシマシタ。イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ デンシャ ノ ツク タビ ニ、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 ニ、カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
一年 タチ 二年 タチ、十年 モ タッテ モ、シカシ、 マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル 年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ。
(尋常小学校修身書巻二児童用、「オン ヲ 忘レル ナ」より)

 ハチ公の一生が、幼い子供にも分り易く簡潔に描かれていて、これを軍国教育と結びつけるのには、いささか首を傾げたくなります。それに、当時の教科書作りに携わった人の証言によると、ハチ公を取り上げるきっかけとなったのは、一般からの投書があったためだと言います。実際、教科書採用以前から、ハチ公のお話は道徳教育に最適であったらしく、学校や一般家庭でも好んで語られ、綴り方(作文)や新聞投書の題材にも度々用いられていたようです。それを物語るのが、小教春秋社出版の「忠犬ハチ公物語」で、本書はハチ公と当時の道徳教育の関係を裏付ける意味でも、貴重な資料といえるでしょう。
 ハチ公の大ファンで唱歌まで作ってしまったことで知られる小野進さんは、当時まさに教職の立場にありましたが、著作のなかで、次のように記しています。

「人間ならば、晩節を汚すといふこともあるが、犬ならばその心配はない所にも人間以上の価値のある点がある。犬ならば棺を覆はずとも、その心情行動に変化がない。筆者が常に唱へる、幼童には、サルの孝、イヌの忠で、教材は十分であると思ふ。純情なイヌサルには人間のやうに複雑性のないことも教材として充分な点である。」
(「秋田の動物を語る」小野進著より)

 人間では、どんなに偉い人や聖人であっても、人である以上裏表もあれば、その人を祀り上げる上での、周囲の意図など、複雑な背景がありましょう。また、「犬なれば晩節を汚す」こともない、というのも重要な点で、実際に教科書採用の際には、「現存する人物は取り上げない」ことが約束事になっていたようです。その為、ハチ公の時にも会議で問題にはなったようですが、結局あまりに感動的なよい話であるから採用することになった、という逸話が残されています。これは、ハチ公が「犬」であったからこそ、通った話ではないでしょうか。
 小野さんが書いているように、小さな子供には、微笑ましい動物に例えて教えるのが、最も良い方法ではないでしょうか。
「ほら、ワンちゃんでも、こうなのよ。だから、人に親切を受けたら、その気持ちを忘れずに相手へ返せるようになりましょうね」といったところではないでしょうか。

 私は、定説になりつつある、ハチ公の教科書採用を軍国教育と結びつける考え方について、もっと深く踏み込んで考えるべきではないかと思われてなりません。当時の人々にも、熱狂的なまでに愛されたハチ公の美談。人はハチ公のなにに惹かれ、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
 あの頃の人たちが、ハチ公にこめた思いを、様々な方面からも探ってみる必要があります。ハチ公と教育という面からも、掘り下げていけば、様々な発見があることでしょう。

 教科書では「恩返し」という表現になったハチ公の「心」を、小教春秋社発行の「忠犬ハチ公物語」では、次のように書いております。

「この本をお読みになるみなさんのうちには、小さな時分、お父さまかお母さまを亡くして、泣いて泣いて泣きぬいたあと、ひとからどんなになぐさめられても、どんなにものをたくさんいたゞいても、悲しい心がどうにもならず、夕ぐれ時などションボリと、泣きもせず、笑ひもせず、たゞだまつて戸口などに立つてゐる子を見たことがありませう。
この犬は、てうど悲しいさういう子どもの心だつたのです。
悲しい子なら泣けもします。お友だちに話も出来ます。そして「お父さま」「お母さま」となつかしいその名を呼ぶことも出来ます。しかし犬には出来ません。だからこの犬はだまつてゐるのです。」

2009/8/9 「 ハチ公を読み解く――「美談」 」


 ハチ公はほんとうに先生を待っていたの?
 こう疑問に思う人も多いことでしょう。これに対して、実はやきとりが目当てで出かけて行ったらしい、と答える人も多く、近年ハチ公の美談はつくりものであったと考える傾向にあるようです。
 しかし、大切なことを忘れてはいないでしょうか。ハチ公の「美談」は、ハチ公が飼い主を待っていた、ということではなくて、犬と人間との間に結ばれた絆、ではないでしょうか。だから、ハチ公がなんの為に渋谷駅にいたのを詮索するばかりでなく、実際にハチ公と上野先生がどれほど愛し合っていたかを知らねばなりません。やきとりを食べたから、駄犬。食べなかったから、忠犬という問題ではない筈です。
 実際、ハチ公はやきとりが好物で、有名になってからは、よく見物客から買って貰っていたようです。だれだって、おいしいものが食べられるのは嬉しい、自然な感情です。私は、ハチ公がやきとりをおいしそうに頬張っている姿を思うと、むしろ心が和むように思います。
 問題なのは、やきとりを食べたからと言って、「ハチ公はエサ目当ての卑しい犬」と、言い切ってしまうことではないでしょうか。無理矢理、忠犬に仕立てる必要もないし、美談として飾り立てることもありますまい。ただ、ハチ公は上野先生が大好きだった、上野先生はこれほどハチ公に慕われていた、それだけは確かです。私は、ハチ公の純情を大切に偲びたいように思います。

 ハチ公は、そもそも、どうして渋谷駅に通っていたのでしょうか。
 一般には「待っていた」と解釈されるハチ公ですが、これはハチ公にしか分らない永遠の謎でありましょう。
 ただ、ハチ公は上野先生が死んだのを知っていたようだ、と証言を残している人もいます。

 上野先生の門下生が書いた、『忠犬ハチ公物語』では、先生の亡くなった当日を、次のように描写しています。
 
 もう、おかへりの時刻だからと思つて、おむかへに出かけました。農大の門まで来て、御待ちしました。しかし、どうしても博士が出て来られません。とうとう暗くなつたので、それでは、もうおかへりになつたのだなと思つて、お家にかへりました。お家の前まで来ますと、たくさんの人々が、出入りしています。お玄関もお居間の方もお客様が一杯です。(岸一敏『忠犬ハチ公物語』より)

 このあと、ハチ公は遅くに出されたご飯に口をつけず、先生の匂いを求めて歩き続け、物置へたどり着きました。そこには、先生の布団がしまってあり、くるんであった紐を食いちぎると、先生の強い匂いと共に、血のついたシャツが現れました。ハチ公は血をなんべんも舐め続けながら、いつしか眠ってしまいます。そして、三日間なにも食べずに迎えたお葬式では、無理矢理座敷にあがり込むと、棺の側から離れたなかったそうです。
 上野未亡人も、後に、こう証言しています。

「上野のお葬式の夜は、庭からガラス戸を押し開けて、部屋へ入りこみ、棺の下にはらばいになって動かなかった。上野の夜具を物置きに入れると、一しょに入って、どうしても出なくて困った」(「ハチ公文献集」より)

 ハチ公は、上野先生に起きた異変を感じ取っていたようです。おそらく、「先生になにが起きたか」は、動物の勘で鋭く悟っていたのではないでしょうか。

 しかし、追い討ちをかけるようにハチ公を襲ったのは、懐かしい我が家と、「母親」のような存在であった上野夫人との別れでした。
 事情があって、内縁関係であった上野夫人は、四十九日も待たずに、屋敷を出なくてはいけなくなりました。法律上、先生の財産を相続する権利を持たないのです。
 住み慣れた家を追われた夫人は、借家を探さねばならず、ひとまずハチ公を日本橋にいる自分の親類へと託します。
 先生の死だけでも、大きなショックであったでしょうに、突然起きた環境の変化は、どれほどハチ公の心を動揺させたことでしょうか。
 ハチ公の預け先も、色々な理由があって日本橋から浅草へ変わり、最後に渋谷の植木職人である小林さんのもとへ落ち着きます。
 顔なじみの小林さんは、ハチ公が最後に得た安息の地ともいえるでしょう。思い出深い渋谷に戻ったハチ公は、渋谷駅へ通うようになりました。
 小林さんも、上野夫人も、ハチ公の渋谷駅通いを、そっと見守り続けました。ハチ公は、先生を迎えに行ったのでしょうか?それは分りませんが、かつてそこは、先生とハチ公が楽しい時間を過ごした場所。ハチ公にとっては、すでに人手に渡ってしまった屋敷のほかに、先生との時間を共有した場所であるのを知っていました。

 ハチ公に関する文献、資料を集め、一冊にまとめた「ハチ公文献集」という本があります。これを編纂された林正春さんは、本のなかで、このように語っています。

 なにもいわなかったハチ公だが、その本当の気持ちが知りたい。(中略)
 たしかに「恩ヲ忘レ」なかったから駅へ通った、とみるのは無理がある。だが、ハチ公が、とても上野教授と渋谷駅を好きだったのは間違いない。そんな老犬を、みんなでかわいがり、忘れずにいる。それで十分たのしい。

 上野未亡人に亡き博士の面影を求めたハチ公。渋谷駅を離れなかったのは、心から可愛がってくれた到底忘れることのできない博士に会いたかったのである。ハチ公の本当の気持ちは、大好きな博士にとびつき自分の顔をおもいきりおしつけて、尾をふりたかったのである。(「ハチ公文献集」より)

 林さんのおっしゃるように、忠犬、駄犬そんなことはどうでもよく、ただ、昔こういう犬がいた――。そのいじらしい一本気な愛情と、飼い主との絆を、いつまでも、いつまでも、忘れずにいたいものだと思います。

  当時の人々も、ハチ公の真心に感ずるところがあって、それを「美談」として語り継いできたのではないでしょうか。あの頃の人々が、ハチ公へ求めた思い、込めた感情もまた、大切なものではないでしょうか。

 「ハチ公文献集」の見返しにも引用され、でじたる渋谷の「ハチ公のお話」にも記されている、当時の動物愛護会がハチ公へ寄せた送辞は、或いは時代の影に埋もれ、忘れ去られていたかも知れない、一匹の犬の存在を、確かに「あったること」(※)だと刻印したまじないの言葉にも思えます。

――云ヒツギ語リ伝ヘラレテ、美(うる)ハシクモ輝カシキ生涯ヲ、長ク長ク称ヘラレルデアラウ。――(当時の動物愛護会送辞より)

(※ 「あったること」。現代民俗学を研究されている松谷みよ子さんは、現代の民話ともいうべき、噂・口承について、これは確かにあったること、愛あって伝えられていくものである、と書かれています。)


2009/3/9 「 びっくりした館長 」


  「地道」という言葉を地で行く「忠犬ハチ公博物館」は、一日の閲覧数はとても少なく、十人も来た日には、「今日は多かったなあ」というところなのですが、昨夜はカウンターがあまりに回るので、
「オヤオヤ、故障したのかなア」
 と、驚いてしまいました。
 昨夜、YAHOO!のニューストピックスで、次のような記事が報道されました。
 ハチ公命日に、彫刻家の安藤士さんはじめ、渋谷の関係者が青山のハチ公墓地へお参りをしたそうであります。実は、このページに参考リンクとして、我がサイトが紹介されていたのです。
 たった一時間で七百人以上カウンターが回ったのですが、さすがYAHOO!、すごいものだなあと、つくづく感心した次第です。
 我がサイトが、少しでも多くの人に、ハチ公を知るきっかけとなったなら嬉しい限りです。
 また、幾人からかメッセージもいただき、とても励ましていただきました。
 この場を借りて、お礼申し上げます。
 ありがとうございます!

 さて、トピックスの写真には、お墓参りをする安藤士さんのお姿がありました。
 士さんは、初代銅像の作者・安藤照さんのご子息であり、現在のハチ公像製作者であります。
 私は、一度テレビで拝見した士さんのお姿が忘れられません。
 それは、確かNHKで放送された、犬の特集番組であったと記憶しますが、ハチ公のエピソード紹介のところで、士さんが思い出話を語っていらっしゃいました。
 そのとき、古びたハチ公の写真を取り出し、やさしく、本物のハチ公に対するように指先で撫でながら、
「かわいいですよね……」
 とつぶやかれたのでした。
 ハチ公に対する、深い愛情が伝わってきて、思わず目に涙が浮かんでしまったものでした。

 初代銅像と、現在の銅像は似せて作られており、ハチ公に縁深い斎藤弘吉さんも、著書のなかで「よく似ている」と書かれているほどです。
 確かに、とてもよく似ている二つの銅像ですが、現在のハチ公像には、長い月日渋谷の風景を見守り続けてきた、なんともいえない、味わいがにじみ出ているようにも思います。
 そして、その「味わい」はまた、実際長きに渡って渋谷駅を見続けた、生きていたハチ公の姿を、そっくり現しているのではないかとも、自分は思います。

 いつでも、どんなに時代が流れても、きっと変わらずハチ公が待っていてくれる。
 当時も、現代も、移る世相、変わる人の心のなかで、ハチ公の存在は、「ホッ」とした安らぎを与え続けているのでしょう。それは、暗い夜道から戻って、「おかえり」と迎えられたときの、あの気持ちにも似ているのでないでしょうか。

2009/3/8 「 ハチ公命日、そしてサイト一周年 」


  今日、3月8日は忠犬ハチ公の命日です。
 そして、私が管理するHP「忠犬ハチ公博物館」の一周年にあたります。
 私がハチ公のサイトを作ろうと思い立ったのは、今から三年ほど前のことでした。もともと、忠犬ハチ公に興味を持っていて、以前からコツコツ調べてはおりました。けれど、HPを作ろうなどとは思ってもみませんでした。だいたい、パソコンの知識もなく、HPの作り方も知りませんでした。
 それが、何故「忠犬ハチ公博物館」設立に至ったのか。
 その理由は、「腹が立った」からでした。
 当時、ハチ公のことをインターネットで調べても、専門に扱っているサイトはほとんど無くて、一番詳しいのが「でじたる渋谷」の「ハチ公のお話」でした。そして、ハチ公を雑学的に扱ったサイトの多くが、
「忠犬ハチ公は、軍国主義時代の、作られた美談」
「ほんとうはヤキトリ目当て」
 などと書いていたものでした。
 その他にも、片耳が垂れているのは、雑種のためですとか、上野夫人に虐待されていた、野良犬であった等々、多くの誤解もされていたのです。
 ハチ公が作られた美談であり、ヤキトリが目当てであったというのも、一つの解釈であり、その発想そのものは咎められないでしょう。ただ、私が悲しかったのは、それに確かな裏づけがあるのかも分らぬまま、仮説としてではなく、「真相」と報じられていたことでありました。好意的に、ハチ公の心情を汲み取ろとして書かれたものではなかったからです。
 ハチ公の色々な考証については、「博物館」に記しましたからここには書きませんが、ハチ公が上野先生と強い絆で結ばれていたことは事実なのです。
 ハチ公は、いつも先生の後を追って歩きました。
 先生といっしょに寝たくて、鼻を鳴らしました。
 先生の帰りを待って、駅前に佇み続けました。
 先生が亡くなって、三日もご飯を食べませんでした。
 先生亡きあと、いつもしょんぼりさみしそうでした。
 これは、「忠犬」といった言葉以前に、何処にでもいる、飼い主と愛犬の愛情深い姿に他なりません。
 だから、当時の報道の仕方や、ヤキトリが食べたかったということにのみ目を向けて、
「なあんだ、ハチ公なんて、忠犬でもなんでもないんだ」
 と思ってしまうのは、悲しい。
 なんであろうと、その犬とその飼い主には、「絆」と「愛情」という物語があったのですから。

 ハチ公は、家庭の犠牲になった犬でもあります。
 愛し合いながら、当時本家から許されず、ついに籍の入れられなかった上野先生と八重夫人。
 先生亡き後、法律上財産を受け継ぐことが許されず、屋敷を追われた八重夫人とハチ公。
 大好きな主人ばかりでなく、住み慣れた家も、穏やかな暮らしさえもハチ公は奪われたのです。
 私は、その悲劇を、より多くの人に知ってもらいたいのであります。
 そして、ハチ公と共に、苦しみ、悲しみぬいた八重夫人のことを……。

 また、ハチ公は、時代を動かした犬でもあります。
 時あたかも、関東大震災後の、急速に変化していく時代のなかで、滅びようとしていた日本固有種の犬たちを保存する動きがありました。そこへ秘められた情熱のドラマにも、ハチ公は深いつながりがあるのです。

 そして、ハチ公は、多くの人々に愛された犬であります。
 銅像になり、小説になり、歌になり、そして今映画にもなろうとしています。
 多くの人々の心に、郷愁のぬくもりを与えてくれるハチ公であります。

 有名なハチ公だけれど、まだまだ知られていないことは、たくさんあります。
 私は、より多くの人に「知られざるハチ公」をお伝えしたいのであります。
 そしてまた、自分自身も、もっともっと「まだ見ぬハチ公」を知りたいのであります。

 もの云わぬハチ公の喜びや悲しみの心を知りたいのです。
 そうすることで、ハチ公への供養になるのではないのか、そんなふうにも思うのであります。

 これからも、コツコツ地道に目立たぬながらも、「ハチ公」の心を追う旅を続けたいと思います。