ハチ公人物事典




目次

忠犬ハチ公


秋田犬。帝大農学科教授・上野先生の愛犬。大正12年11月、秋田県秋田郡二井田村大子内(現・大館市)生まれ。
先生を駅まで送り迎えするのが日課。先生亡き後も、先生を慕って駅前へやって来た。
好物は焼き鳥。嫌いなものは、花火や雷、鉄砲の音。それから喧嘩も嫌い。
大好きな人は、上野先生と、上野夫人。
後年、犬に咬まれた傷がもとで、片耳が垂れてしまう。
故郷・大館に錦を飾り、生前に銅像建立、宮中に塑像を献上され、人間にもない快挙を為す。
昭和10年3月8日世を去る。享年数え年13歳。
今でも渋谷のアイドル、秋田犬のシンボルとして人気を博す。

ハチ公の家族


上野先生


上野英三郎博士。東京帝国大学農科教授。
三重県の出身で、生家は地元の名家。
病身で長い間独身を通し、後に年の離れた八重子さんと結婚。
実子がなく、犬をわが子のように可愛がった。
仕事には熱心で、学校の講義ばかりでなく、自ら技師として各地に赴いて、
日本土木界に大きな功績を残した。
大正14年5月21日、講義中に脳溢血のため急死。
多くの門下生に慕われた先生の人がらは、単に弟子思いというのに留まらなかった。それは、出入りの植木職人小林さんや、また他ならぬ愛犬ハチ公が、先生を深く慕っていたのが証明している。

上野夫人


上野先生の奥さん。名前は八重子さん。優しくて、美しい奥さま。
裏千家の茶道の嗜みがある。
先生と死別後、内縁の妻であった為に、お屋敷と財産が相続出来ず、大変な苦労をされた。ハチとは悲しみを分かち合う仲であったが、色々な事情の為に、別れて暮らさねばならなかった。ハチの死んだ時に、「つらい思いをさせて・・・」と泣いた夫人もまた、つらい日々を耐えていたのであった。
ハチが、とびついてしっぽを振ったのは、上野先生と上野夫人のふたりだけ。

つる子さん


上野先生の養女。上野先生が亡くなるまで、同じお屋敷に暮らしていた。
ハチのやってきた年に、娘さんのちゃこちゃんが生まれ、ハチがよくあやした。

才ちゃん


尾関才助さん。上野先生のお家の書生さん。ハチの面倒をよく見、「犬日記」をつけて、ハチの記録をつけた。
上野先生の死後、故郷へ帰り夭折してしまった。
(夭折、若くして亡くなること。)

ジョン


上野先生の愛犬であるポインター種。
先生の家では年長格で、子犬ハチの面倒をよく見た。
先生の死後、ハチと共に日本橋の呉服屋へ預けられるが、まもなく他所へ移され、
ハチとはこれが今生の別れとなってしまった。

S(エス)


上野先生の愛犬のポインター種。
ジョンより一才年下。在りし日は、三匹仲良く先生の送り迎えをしたのに
先生の死後、預けられた先から帰ってきたハチと出会った時には、
ハチを威嚇し、咬む犬に変わってしまっていた。
これが悩みのひとつとなり、ハチは、再び上野家を去ることになってしまう。

ハチ公を面倒みてくれた人たち(ハチ公後見人)


小林さん


上野家に出入りしていた植木屋さん。名前は菊三郎さん。
植木屋として自立するにあたって、上野先生のお世話になった。
秋田から東京へやって来たハチを、駅まで迎えにいった人である。
上野先生の死後、ハチを引き取り、第二の飼い主となる。
無口な人であったけれど、ハチを献身的に面倒見てくれた。

小林さんの弟


小林さんの弟で、名前は友吉さん。お兄さんと同じ植木屋さん。
小林さんのお家でいっしょに暮らしていた。
ハチをよく散歩へ連れて行ってくれた。

斎藤弘吉さん


本名は弘。美術学校を卒業し、洋画家を志していたが、病気療養中に日本犬と出会い、 当時滅びようとしていた日本犬の保存を心に決める。
同じ頃、ハチと知り合い、小林さんからハチの来歴を聞いて感動し、
ハチを新聞に投書して、世間へ広く知らせた。
日本犬保存会創設者。

安藤照さん


鹿児島県出身の彫刻家。犬が好きで、ハチの銅像を作る。
昭和20年5月25日の東京大空襲のために亡くなる。
現在の銅像は、安藤さんのご子息で彫刻家の士さん作。

吉川忠一渋谷駅長


当時の渋谷駅長で、ハチが有名になると、色々便宜を図ってくれたが、あんまりハチ公人気にかまけていたので、「駅長の忠一の忠の字は、ハチ公にとられてしまったよ」とからかわれたこともあった。

デビーちゃん


小林さんの近所に飼われていたフォックステリアの女の子。
ハチとの間にクマ公をもうける。
デビーはハチよりも先に世を去り、それ以来ハチは、他の牝に心を許すことはなかったといわれている。

クマ公


ハチの息子。お母さんはフォックステリアのデビー嬢。
ハチによく似た顔で、体も大きい。
ハチのお葬式や剥製公開の席に出席した。

ハチ公無名時代とゆかりのある人びと


日本橋の呉服商


上野邸を追われたハチ公を最初に預ってくれた所。
商いが忙しくてなかなか散歩がしてやれず、ハチは問題を起こしてしまう。

高橋家


高橋さん一家は浅草で理髪用椅子の製造と販売をしていた。日本橋を後にしたハチ公を世話した。(定説では二年。小林友吉氏証言では半月)。
ご主人、息子さん、力持ちの女中お文さんの三人で代わりばんこに散歩をしてくれた。 また、おかみさんはお腹の弱いハチのために食事の内容に気をつけてくれた。
ハチが大きい犬であることから近所で誤解を受け、ついに喧嘩になってしまう。

高橋さんちのS(エス)君


高橋さんのおうちで飼われていた犬。上野家のエスと同名である。ハチと仲良しになり、いっしょに写した写真も残されている。
S君が近所の犬にいじめられると、ハチは助けてあげた。

ハチ公を世話してくれた人びと


渋谷駅駅員の佐藤さん


ハチ公係りの名目にて、渋谷駅へ着任。ハチの詳しい記録を残し、その資料は今でも大切に渋谷駅で保存されている。

肉屋のおじさん、おばさん



小林さんのお家の裏にあった、精肉店の子供のいないご夫婦。
ハチを、ほんとうの子供のように可愛がってくれた。

お茶屋の店員さん


ハチが渋谷駅へ通う道筋にあったお茶屋(※)の店員さんは、いつもハチと仲良くしてくれた。
(※製茶の販売業「梅原園」。通称「吉どん」。本名を渡辺吉次さんという。「ハチ公文献集」より。)

ニカク食堂


ハチが渋谷駅へ通う道筋にあった食堂。ハチの馴染みのお店。前足でノックをすると、扉を開けてくれた。ハチはここで朝食をとるのがお気に入りであった。

巡査さん


当時の渋谷界隈の巡査さん。
ハチが野良犬捕獲人に捕まってしまったとき、よく助けてくれた。

ハチ公とつながる人びと


世間瀬(ませ)千代松さん


恩師である上野先生に秋田犬を送ってくれるように依頼された人。
当時、秋田県の耕地課長を務めていた。
世間瀬さんは、秋田犬の産地である大館方面で技師をしていた、部下の栗田さんに、秋田犬の子犬を見つけて送ってくれるように頼んだ。
上野先生が、世間瀬さんに秋田犬を送って貰うことになったと家族に伝えた葉書が残されており、現物は斎藤弘吉さんが資料として預っていたようである。尚、吉川駅長が複製した葉書は、渋谷駅に保管されている。

栗田礼三さん


ハチ公と上野先生を結びつけた人。栗田さんは耕地課の技師で、秋田県は大館方面に当時滞在していた。上司の世間瀬千代松耕地課長から、共に恩師である上野博士へ送る秋田犬の手配を託される。その頃親しく往来をしていた斉藤さんの家で生まれた子犬を貰いうけ、大館駅から送った。それがハチ公である。
昭和10年3月10日、用あって上京した栗田さんは、偶然渋谷駅を通りがかり、ハチ公の霊祭に行き会う。このとき、ハチ公は上野先生の愛犬であったことを知り、奇しき「再会」を果たすのであった。

斉藤家


ハチ公の生家。番地は北秋田郡二井田村字大子内。地元の豪農であった。田を開いたり、果樹栽培などにも積極的で、耕地課の技師であった栗田さんから指導を仰いでいた。また、隣同士に暮らしていたこともあり、栗田さんとは家族ぐるみの親しさでもあった。現在は、家屋は改築してしまい当時の面影もないが、門前にハチ公の碑と可愛らしい像が建っている。時を超えて2011年、春香ちゃんという秋田犬を迎えた。
(尚、当サイトでは名前の頻出する「斎藤弘吉」との混同を避くる為に、「斉藤」と表記を統一した。)

ハチ公ファン


小野進(すすみ)さん


当時、ハチ公のふるさと、秋田県大館で博物教師をしていた。
史跡天然記念物調査委員。
動植物に関する深い造詣と、文学的教養をもち、著作も残している。
昭和元年に日本固有の動植物及び景物への興味を書いた「自然の国宝と日本人」を処女出版する。これは天然記念物という存在を教育と結びつけ、一般へ呼びかけた画期的著作であった。日本犬保存のさきがけともいえる考えも述べられている。
日本犬、ことにふるさとの名犬・秋田犬に惹かれ、忠犬ハチ公を知ってすっかりファンになってしまう。ハチ公への愛は、著作やラジオ、投書を通じて世に発表され、ついには「ハチ公唱歌」を作詞。曲をつけて貰って楽譜も存在するが、時局のためにレコードには吹き込まれなかったようである。
「ハチ公唱歌」に、「富士と桜とハチ公こそは(略)吾等の誇り」とある。小野進さんにとってハチ公は、日本のシンボル富士山や桜にも匹敵する、心のふるさとそのものであったのだろう。

参考文献・引用


林正春「ハチ公文献集」
小野進著作