ハチ公命日


ハチ公の墓
「ハチ公の墓」(青山墓地)写真提供「渋谷のハチさん」

 昭和10年3月8日、渋谷駅の名物犬として親しまれていた忠犬ハチ公は、数え年13年の生涯に幕を閉じました。朝の五時頃のことであったそうです。
 普段は足を向けたこともない、渋谷駅からは離れた稲荷橋の付近、渋谷区中通三丁目四十一番地にある、滝沢酒店の近所で倒れているのが発見されました。酒店のおかみさんが見つけたとき、ハチ公にはまだほんのりと、ぬくもりが残っていたという話です。
 おかみさん(春野さん)は後に、
「可愛がってくれた飼い主を死ぬまで忘れられなかったハチ公でした。死に顔を青山墓地(※)にむけていて、可哀相でしたよ」
 と、語っています(「ハチ公文献集」参考)。
(※青山墓地は、ハチ公の主人・上野博士の墓所。館長補足)


目次

 ○3月7日の夜
 ○お別れの夜
 ○3月8日の朝
 ○残された、一枚の写真
 ○資料「 ハチ公の死に関する事柄 」

資料「ハチ公の死」



○3月7日の夜


 ハチ公は、もう自分に残された時間は、ほんの少ししかないことに気がついていました。ずっとずっと通い続けた、親しみ深い渋谷駅とも、お別れしなくてはならないのです。そして、これから自分は、ようやく――何年も何年も待ち続けた――大好きな上野先生のもとへと、旅立つ支度をせねばならないのです。
 ノッソと、重たい体を持ち上げました。病に蝕まれ、立っているのも辛いのですが、最後の力を振りしぼって、ゆっくり、ゆっくりと歩き始めました。ハチ公は駅を出ていくと、商店街のほうへ向かったのです。もうずっと、病気のために、寝てばかりいたハチ公が……。
 のっそ、のっそ、のっそ……。
 ハチ公の足は、いかにも重そうです。その弱々しい足並みを励ましながら、ハチ公は馴染みのお店を、一軒、一軒と、残すことなく訪ねて歩きました。
「おお、ハチ公じゃないか」
「久しぶりだったね」
「もう体はいいのかい」
 どのお店でも、顔馴染みのハチ公です。みんな、いつものようにハチ公がヒョッコリ遊びに来たのだと思って、気軽に声をかけました。
 最後に、ハチ公がやって来たのは、甘栗太郎のお店でした。
「ハチ公?」
 甘栗太郎のお店では、突然の来訪に目を見張りました。それというのも、ここへハチ公が来るのは、今まで一度もなかったのです。
 ハチ公は、じっと、お店のご主人の顔を見上げ、やがて、来たときのようにゆっくりと、表へ去って行きました。ご主人は、どうして今日に限ってハチ公が来たのか、不思議でなりませんでした。
 奇妙なことは、その後も続きました。
 病気の苦しい体を引きずるように、ハチ公は駅の各室を、順々に回りはじめたのです。
「オヤ、ハチ公だ」
「なんだ、寝てなくていいのかい」
 駅員たちは、この頃はずっと寝てばかりいたハチ公が、ひょいと顔を出したものですから、珍しいものだとは思ったのでしょうが、彼がそこいらを歩き回るのは日ごろからの習慣でしたので、特に気にかける者もありませんでした。
 しかし、ハチ公がノロノロと、出札の部屋へと入って行くのを見て、みんなは「オヤ」と目を丸くさせました。ハチ公にとっては、我が家のような渋谷駅ではありますが、出札にはただの一度も、入ったことはなかったのです。
「おかしなことも、あるものだなあ……」
 駅員たちは首を傾げましたが、まさかその行動にどんな意味が込められていたのか、察することはできませんでした。
 七日の、夜も更け渡る頃の出来事でありました。そして、翌日の午前二時までは、確かに出札の部屋でじっと寝ていたハチ公も、気がつけばどこかへ姿を消していました。

お別れの夜


 ああ、けだるい、疲れたこの体。
 でも、行かなくてはならない……。
 懐かしい、懐かしい、渋谷駅を、ハチ公はヨロヨロと後にしたのです。もう戻ってこない覚悟で……。一度だけ立ち止まると、ハチ公は駅のほうを振り返りました。思えば、長い日々。この辺りもどれだけ様変わりしたことでしょうか。
――コツン、コツン、コツン……
 雑踏をかきわけるあの足音を、
――ハチ。
 自分を呼ぶあの声を、
――ただいま。
 ただの一度だって、聞き逃したことがあったでしょうか。
 だけれど、もういくら待っても、懐かしい音を耳にすることはありませんでした。町は変わりました。人も変わりました。時代は、忙しく進んで行きました。
 しかし、それでも。この駅舎だけは、自分にとって、ただ唯一のよりどころ、心のふるさとであったということに、ハチ公は気がつきました。
 犬である自分は、人のように言葉では表せられないのだけれども。
 この、こんこんと湧き出でる、泉のような、胸の締めつけられる、せつないような、甘いような、ほろ苦いような、気持ち――
 だれも見送る者のない駅に向かって、ハチ公はかすかに、おっぽを振りました。丸い、つぶらな目を見張って、いつまでも、駅を見つめていました。
 そして、くるりと前を向き、夜の闇のなかを、静かに、時を縫い合わせるように、歩きはじめました。

3月8日の朝


 渋谷駅からは反対側になる、中通三丁目四十一番地に位置する、滝沢酒店では、一日がはじまろうとしていました。
 午前六時、おかみさんは店先の掃除を済ませ、路地へと入ったところで、「ハッ」と立ち止まりました。白い、ふわふわとした柔らかい体が、そこへ横たわっていたのです。
 渋谷駅名物として名も高い、忠犬ハチ公でした。
 こちらのほうへは、一度も来たことのないハチ公です。おかみさんは、そっとハチ公の毛皮に触れました。ほっかりと、ぬくもりが、わずかながら残っていました。
「ハチや、どうして来たこともない、こんな遠くに来て、命を落としたのだろうね……」
 おかみさんは、ハチ公の顔や、太い首すじを、やさしく撫で続けました。
 それから、店員の西村伝蔵さんを呼んで、すぐに近所の交番へと走らせました。
「大変だ、ハチ公が死んでるウッ」
 知らせを持って駆け込んで来た店員に、交番でもさだめし驚いたことでしょうが、
「それは区役所の係りだろう」
 と言ったそうです。そこで、西村さんは指示通り区役所へ向かったのですが、何分にも朝早いこととて、呼べども呼べども、だれも出て来てくれません。仕方なしに、渋谷駅へ行くと、そこに居合わせた駅員に事の次第を伝えました。
「なんだって、ハチ公が!」
「とうとう……」
「そういえば、昨夜……」
 色めく駅では、すぐさまリヤカーを持って現場に駆けつけました。ハチ公のつめたい体は、生前から一番好きだった小荷物室へと運び込まれました。
「ハチ公死す!」
 この悲しい知らせは、方々へと伝えられました。
 ハチ公にとっては、第二の飼い主ともいうべき小林さんは、男泣きに泣きました。
「うちで、息をひきとらせてやりたかった!」
 ハチ公の喜びも、悲しみも、じっと見守ってきた小林さんです。ハチ公の心を、だれよりも知っていました。
 ハチ公の発見者であり、日本犬保存会創設者の斎藤弘吉さんも、知らせを受けてやって来ました。その頃には、お坊さんの読経がはじまり、新聞記者たちも集っていました。
 ハチ公の死を、どこの新聞も競うように報じました。そして、悲しいニュースは日本中を走りました。
「ハチ公が死んだ!」
 一度も、逢ったことのない人でさえ、涙を流さずにはいられませんでした。
 新聞を、何度も何度も読み返した人もいたでしょう。
 思わず、そっと目頭を押さえた人もあったでしょう。
 たまらなくなって、渋谷駅に駆けつけた人もあったでしょう。
 不況と、迫りくる暗い時代のなかで、みんなの心をなぐさめ続けていたハチ公は、当時のたくさんの人々に、ほんわかとした贈り物を残して行きました。

残された、一枚の写真


 「ハチ公は、やっとご主人のもとへ行けたんだ……」
 「良かったね、ハチ公……」
 だれもが、ハチ公を思って、しみじみとつぶやきました。あの世……とやらがあるならば、きっとハチ公は、大好きな上野先生と再会したに違いない。そして、おっぽを振って、思う存分甘えたことだろう……。
 そうです。天国には、大好きな「お父さん」が待っていたことでしょう。それに、幼かったころ、面倒を見てくれた書生の「才ちゃん」も。兄弟のように遊んだ、ジョンやエスも……。でも。
 でも、ひとり足りないのです。
 大好きな大好きなあの人が足りないのです。
 ハチ公は、かなしげに、下界を見下ろしました。
「ハチ!つらい、思いをさせて……」
 添えられた花々、じっと顔を覗き込む人々、手を合わせる駅長。そして、毛布にくるまって眠るように横たわるハチ公に、顔をゆがませてかがみ込む上野夫人の姿を、昭和10年3月9日付け読売新聞の写真が伝えています。
 ハチ公が逝って七十四年――今はきっと、ハチ公の魂は大好きな人たちに囲まれて、幸せに違いありません。だれ一人欠けることなく、「お父さん」と「お母さん」の間にはさまれて……。

資料「 ハチ公の死に関する事柄 」


 ハチ公は死の前日、商店街の各店を回って、一軒ずつ暇乞いをした……というのはよく知られる逸話である。一方で、駅の各室も巡回し、最後に一度も足を踏み入れたことのない出札の部屋に入ったというエピソードも伝えられている。
 残された文献をつなぎ合わせると、ハチ公の最期の日は、次のようになる。
 午後十一時頃、だいぶ弱っていたハチ公は、のっそりと起き上がると、商店街を回りはじめた。何処の店でも、ハチ公が遊びにやって来るのはいつものことなので、さして気にもとめなかったようである。しかし、仕舞いに訪ねた甘栗太郎の店だけは、その晩がはじめての来訪であった。店主の顔を、じっと見上げて去って行ったという。
 また、商店街ばかりでなく、渋谷駅の各室を順々に巡ると、出札の部屋へ入った。ハチ公は駅のあちこちに出入りしており、改札口や小荷物室は特にお気に入りであったそうだが、出札部屋には、甘栗太郎同様、一度も足を踏み入れたことがない。
 不思議がる駅員たちをよそに、そこで横になったハチ公は、八日午前二時までは姿が確認されている。
 次に発見されたとき、ハチ公はすでに息絶えていた。三月八日午前六時頃、渋谷区中通三丁目四十一番、滝沢酒店の店主妻女・滝沢春野さんが発見者である。店先の掃除を終えた春野さんが、路地に入ろうとしたとき、木戸の下で死んでいるのを見つけたという。その時、まだ微かにぬくもりが残っていた。(ハチ公の息絶えたのは五時頃であろうという。)
 滝沢酒店は、渋谷駅からも離れており、こちらの方面へハチ公が生前現れたことはなかったという。
 春野さんは、すぐに店員の西村伝蔵さん(当時二十歳)を交番へと走らせた。ちなみに、当時の「毎日新聞」では、第一発見者を西村伝蔵さんと報じており、その他の資料でも、同様に記したものが多い。春野さんの証言は、「ハチ公文献集」に収められている。
 さて、以下は「毎日新聞」の記事によるが、西村さんは交番へ知らせたが、「それは区役所の係り」と言われたので、そちらへ向かったが、早朝のことなので、だれもいない。仕方なく、渋谷駅へ行って駅員に伝えると、すぐにリヤカーでハチ公を引き取りに来てくれた。(駅へは、交番が連絡したという記事もある。)
 ハチ公の遺骸は、生前好きだった小荷物室に安置され、枕頭には花が手向けられた。
 ハチ公世話係を任じていた佐藤駅員の控えによると、ハチ公の死を連絡した人々は、 小林菊三郎さん、上野八重さん、斎藤弘吉さんといったハチ公にとってはいわば親族同様の人たちのほか、日本犬保存会の理事を勤めた板垣博士、銅像の作者安藤照氏、大館駅長及び秋田駅長、また大館の秋田犬有力者田山氏などの名前もある。
 他に、各新聞者へ連絡したようである。
 ハチ公の後見人である小林さんが駆けつけ、上野夫人は八時頃知らせを受けて、自動車で駅へ急行した。斎藤さんが到着したときには、すでに読経がはじまり、報道関係者も集っていた。
 近所からも多くの人が焼香に訪れ、黒山の人だかりであったという。
 九日の「朝日新聞」記事によると、
 十一時頃に、上野夫人によって銅像に黒白のリボンが結ばれ、生花が手向けられた。午後一時から上野家菩提寺付近の、妙祐寺から僧侶が来て読経、とのことである。(斎藤氏が到着したのはこの頃か?)
 この時点では、正式な葬儀の日取りは決まっていなかった模様。
 ハチ公銅像前には焼香客絶えず、銅像と遺骸は花輪に埋もれたという。また、全国からハチ公の死を悼む手紙や品物が寄せられた。


参考文献・引用


「ハチ公文献集」(林正春)
「忠犬ハチ公頌賦」(小野進)