童話「黄泉の国のハチ公」
原作・小野進 文・ハチ公館長

小野進「黄泉の主従立体像」(「忠犬ハチ公頌賦」収録)より


挿絵




〇はじめに

 逝きしあるじと
 知らずて待ちし
 尊き心
 銅像(かね)にぞのこる
 学べや人々
 その魂を
 (唱歌「忠犬ハチ公」より)
 長い年月を経て発見された「ハチ公唱歌」の作詞者、小野進(おの・すすみ)さんは、秋田犬の歴史を紐解く上で、欠くことのできない人物であります。
 当時、秋田県で教職の立場にあった小野進さんは、秋田県における天然記念物調査委員を任じ、多くの天然記念物を誕生させました。なかでも、地元の名犬・秋田犬を深く愛し、その保護を呼びかけ、ラジオや書籍を通じて、秋田犬の良さをたくさんの人々に広めました。こうした小野さんのご尽力あって、昭和6年、秋田犬は日本犬初の、天然記念物として指定されることになったのです。
 また、小野進さんは、同じく秋田犬である、「忠犬ハチ公」の熱烈なファンでもありました。現在知られている「ハチ公唱歌」の他にも、ハチ公のたくさんの詩をお作りになりました。
 そのなかでも、一風変わっているのが、「黄泉の主従立体像」です。この作品は、死後の世界でハチ公が上野先生と再会する様子を、ファンタジックに描いています。私は、この作品を読みやすいよう童話に作り変えてみようと思いました。お話の筋は、小野さんの詩を元にしていますが、結末を自分なりに考えて原作とは違うものにしました。しかし、きっとこの結びかたを、小野進さんも喜んでくださるものと思います。
 今から七十年程昔に小野進さんが描いた世界観を、どうかお楽しみください。


飾り


 どこまでいってもまっくらで、さらさらと流れていく水のように、飛んでゆく矢の白いひらめきのように、決して戻ることのない世界。進んでいくほどに、歩いてきた道すじは闇に飲まれ、引き返すこともできなくて、ただもう前へ前へと、行きさきも分らず、ハチは歩いていたのでありました。
 かすかに覚えているのは、だんだんと薄れていく星のあかりで――。ああ、そうです。ひとのいない、さびしい露路裏。地面のしんしんと凍るように堅かったこと。それからどうしたのでしたっけ。ハチはぼんやりと記憶の糸をたぐりました。

 ハチ――。

 あのひとの声が、呼んだように思います。
 あ、あれは渋谷駅。
 列車が、駅へついた。そして、雑踏。たくさんの、足音。
 コツンコツン、この靴の音でない。ぺったりぺったり、この草履の音でない。がらがら、カツカツ、タンタン……あれも違う、これも違う。

 ハチ――。

 そうだ、名を呼ばれて駆けだしたのでしたっけ。なつかしい、このにおい。
 それから。それから……。
 ハチは、ぴたりと歩みを止めました。なにか、たいせつなことを、忘れているように思われてならないのです。

――ああ、そうして、ここはいったい何処だろう。

 ハチは、夢を見ているような、かすみのかかった心もちで、ゆっくりと辺りを見回しました。
 そこは、いつの間にやら、がらんと広い小路でありまして、六つの辻が蜘蛛の足みたいに伸びておりました。

――ああ、やれやれ。今日の閑散なことよ。

――どうしたことだろう。今日はまだひとりも来ないではないか。

――結構、結構。おおかた下界は平和なんだろう。飢饉や災害や戦争でもあれば、また忙しくなるがなア。

 ふしぎなささやきが、近いのか遠いのか分らない響きをもって、ハチの耳へ届きました。ゆっくり、小路のまんなかへ出ると、そこには角をはやしたあやしい人かげが、いくつも見えました。どれも、濃い影のような肌をしていて、大きな口の歯ばっかり白いのです。彼らはよほど退屈なのでしょう、鬼ごっこをはじめて、ふざけあいました。けれどもハチの姿を見つけると、驚いたように棒立ちになって、みんなで顔を見合わせました。

――犬だ。犬だ。この黄泉の六道の辻に、犬とは珍しや。

 ハチは、ほんの少しだけ、魂が体に入っていた頃のことを思い出しました。いつももの怖せず、人に近寄っていたときのことを。
 鈴のような、ぽっちりとした目で、かれらを見渡しながら、なつかしげにハチは近づいてゆきました。

――おまえは、なにをしにここへ来たのだ。
  ここは、六道の辻。
  人が死後、選ばなくてはならない六つの道だ。
  おまえは犬だから知るまい。
  この辻を、ひとつでも誤って進んでみよ。
  どんな恐ろしい世界が待っているだろう。
  罪人をさかしまにつるし上げる地獄。
  己の肉をくらう餓鬼のくに。
  いつまでも果てぬ戦の修羅のくに。
  こんな恐ろしい世界を、お前は知るまい。
  さあ、行け行け。ここは、犬であるおまえの来るところでないぞ。
  これは、にんげんが選ばなくてはならない辻なのだ。

 こんなことを聞いても、ハチには少しも恐ろしいとは思えませんでした。そして、そのあやしい姿のかれら――黄泉の国の鬼どもの姿を、いつまでも見つめていました。

――ふしぎな、この犬の目を見よ。なんという、澄んだ、さわやかな、まっすぐな目であろう。

――そうだ、この犬は、なにか大切なしなくてはならないことがあるような、そんな気がする。

 鬼たちは、身をかがめて、ハチの目を見返しました。
 ああ、その目。なんとかなしい目でありましょうか。これほど澄み切って、そしてかなしい目が、ほかにあったでしょうか。それは、こんこんと沸き出でる泉のような、悲しみをたたえた、優しい目であったのです。

――そうだ、思い出したことがある。あれは、そう十年ほども昔のことであったろうか、にんげんの世界の、博士というひとが、ここを通ったことがあった。

 鬼のひとりがつぶやきますと、他の鬼もうなずいて、

――うむ、覚えているぞ、ひとの世にはめずらしい君子というので、極楽浄土の辻を進まれたお人だ。

――あの人はたしか、きっと自分のあとを慕ってくるものがいる。それを必ず自分の住むほうへ通してくれと、我々になんども頼んでいったのだ。

――その名は、シチとかハチと申したな。

 ハチ。その響きに、ハチの耳はぴくりとふるえ、ワンとかすかな返事が、くちから漏れました。たった今まで、透き通っていたような彼の瞳は、黒くしっかりと輝きはじめました。ようやく、思い出したのです。いつもその名を呼んでくれた人のことを。その名で呼ばれ続けた、十三年もの生涯を。

――おお、おまえがそのハチか。いや、にんげんかと思うていたが、ワン公であったのか。

 ハチは、そうです、わたしがそのハチですと言うように、尾っぽをしきりに振りました。鬼たちは、驚いてお互いの顔を見ました。
 ハチ公!ひとの世に、忠犬と讃えられた彼。
 そのやさしいやさしい名前。ハチ。
 鬼たちは、ハチのまなざしから、全てのいきさつを知りました。どうしても忘れられない、逢いたいひとがいることを。また逢える日を、待って待って待ち続けた日々のことを。
 みんな泣きました。忘れていた心を、思い出したのです。そうでしたっけ、こころというもののなかには、こんなにもやわらかな、あたたかいものが、閉まってあったのでしたっけ。

――感心だ、感心だ。にんげんの多くは、罪をあがなう国へいくのに。

――けれども、犬と人とは、行かねばならぬ国が違うのだ。

――だが、逢わしてやりたい、おまえに!

――ああ、逢わしてやろうではないか!

 そのとき鬼の大将が進み出て、サッとタクトをとりました。するといっせいに鬼どもは、聞いたこともない言葉で歌いはじめたのです。嵐のようにおこるコーラスが、ぐわんぐわんとこだまして、はねかえっては響き、響いてははねかえり、言葉も意味も分かりませんが、ふしぎなメロディーは、ぐんぐん心臓にぶつかりました。浮き浮きするようなその拍子。ハチは、思わず楽しくなって、甘えるようにちんちんをしたのでした、すると、

「あ  あ  あっ!」

 二本足で立ったその姿のままに、ハチの前足はひとの腕に。後ろ足はひとの足に。耳は顔の横へくっついて、思わず手をやった頬のやわらかく、すべらかなこと!
 ハチは、にんげんになったのです。十三歳のハチは、にんげんの十三歳に。ほっぺの赤くて丸い、可憐な十三歳の少年に。ひとの子どものように、ぴかぴかした金ボタンの服をきて、いつも駅で見ていた坊ちゃんと同じ、きれいに磨いたお靴を履いて、学校の帽子を被っていました。
 わっと、おこる鬼たちの拍手。

人間になったハチ公

――ハチ、これをおまえにやろう。これは、一度しか使えない黄泉の国の秘薬だ。これを持って、逢いたいひとの所へゆけ!

 鬼の大将がハチにふしぎな薬を渡すと、ほかの鬼たちは両脇へよけ、ハチのために道を作ってくれました。
 さあ、ハチ、にんげんのみちをお通り!
 鬼たちに励まされ、ハチは二本の足で駆けました。この道、この道をゆけば、逢いたいあの人のところへ行ける。逢って、言いたい言葉がある!ひとの姿になったら、一度でいいから使ってみたかった、あの言葉。
 夢中になって、ぐんぐん駆けてゆきますと、霧でかすんだ青い風景が広がって、さわさわと葦のそよぐ音が聞こえました。ときおり、きらっきらっと光るものが見えます。霧を抜けて、光るものに近づこうとしますと、おお、それは辿りもつかぬ遠い遠い果てにある、白銀の塔であります。
 あそこだ、あそこだ、あそこにいるんだ。ハチは必死に駆けました。息もできぬほど走りました。これでもか、これでもか、と足を動かすのですが、どういうわけだか、白く輝く塔は、いつまでも遠くにそびえているのでした。何故?どうして、あそこへ近づくことができないのでしょうか……。
 それは、先生とハチ公との、別れた時間の長さであったのです。上野先生の知らない時代を、ハチ公は進んでしまった分だけ埋めなくてはならないのです。十年もの隔たりを……!
 そうだ、この時こそ。ハチは、鬼から貰った薬を噛みました。あのひとに逢わせてと願いながら、がっちり噛みしめたのです。とたんに、自分のからだが、とてつもない速さと力で、塔へ吸いつけられるのが分りました。ぐんぐん塔が大きく、間近になるにつれ、窓のなかの、長い廊下を歩いてゆく、ひとりの姿を見つけたのです。
 それこそ。忘れもしない、見間違いもしない影。なつかしい、やさしいにおい。塔に辿り着いたハチは、長い廊下を走りました。走って、走って、角を曲がろうとするところで、その人をつかまえたのでした。しっかりと、大きな背中に飛びつきますと、その人は驚いて振り返ったのです。それから、ふしぎそうな顔をして、ハチを見ました。
 あ、その顔。
 ハチは、久しぶりに見る面影に、心がブルブルをふるえるのを感じました。きゅうっとしめつけられるように、心臓が痛いのです。その痛みがほろほろと揺れ動く度、目からはぼたぼたと、熱いしずくがしたたり落ちました。どんなに悲しいときでも、こんな水が流れたことは、今までなかったのですけれども。ハチは、にんげんというものは、瞳から雨を降らすのだというのを思い出しました。
 だれだろう、とけげんそうに首をかしげるこの人こそ、ハチが何年も何年も逢いたいと待ち続けていた上野博士なのです。ハチは、しゃくりあげる声を、必死にふるわせて、しぼりだすように叫びました。彼の声は、たちまちひとの言葉となって、

――ハチです。ぼく、ハチ……。

 はち?さて……おまえがハチ?そんな疑いが、博士のお顔に過ぎりました。ハチは、両手でしっかりと博士に抱きつきながら、涙でぐっしょり濡れた顔を向けました。そして、言いたかったあの言葉を、今こそ使えるのだと思いました。ひとの言葉が使えるのなら、言ってみたかった、あの言葉を。

「ハチ、ハチじゃありませんか、お父さん!」

 お父さん!先生でもない、ご主人さまでもない。ああ、どの子どもでも、好きなだけ口にできる、とてもうつくしいこの言葉。上野先生――お父さんは、これでなにもかも、よく分ったというふうに、なんにも言わないでハチを抱きしめました。
 ハチは、しっかりとお父さんの胸に抱かれて、頬をなんべんも強く背広へこすりつけました。いつも嗅いでいたにおいです。懐かしい手触りです。

「さあ、はち。帰ろう」

 耳元で、はっきりとしたお父さんの声が聞こえましたので、ハチはようやく顔をあげました。すると、どうしたのでしょう。いつの間にやら、人の行き交う駅の構内にふたりは立っていたのでした。お父さんはと見れば、外套にお帽子の、いつもお仕事に行かれる格好で、にこにこしていました。

「さあ、早く帰らなくっちゃ、お母さんが待っているだろう」

 お父さんとハチは、手をつないで駅を出ました。空にはぽつぽつお星さまが出ていました。冬の冷たい空気が、さあっと頬をなぜます。駅の片隅には、犬の銅像が星でも眺めるようにして建っていました。
 その傍らを過ぎて、ふたりはお家へ向かいました。街をぬけると、道のさきに、女の人が待っていました。

「はち――」

 やわらかい声が、呼んでいます。

「はち――」

 それから、ふんわりとしたにおいが、近づいてきました。お母さんの、においです。お母さんが、ふたりを向かえにきたのです。

「さあ、はやくお家へ帰りましょう。お腹すいたでしょう。今日ははちの大好きなコロッケですよ」

「よかったなあ、はち」

「うん」

 ハチは、うれしくてたまらないふうに、強くうなずきました。お父さんの手と、お母さんの手をしっかりつないで。さんにんの影は、お月様のひかりに、長く長くみちへのびておりました。

(終わり)
十九年十一月十一日


飾り


〇原作について

 童話にするにあたって、幾分お話の運びを自分なりに変えて書きましたので、描写の違うところもあります。
 また、原作の結末では、ハチ公は先生に再開すると、再び犬の姿に戻ることになっています。ハチが言いたかった言葉――お父さん――というのは、私が考えたものです。ハチ公にとって上野先生は、お父さんであったのだろうと思い、こういう終わり方を選んだのです。また、上野夫人――ハチにとってはお母さんであるこの人も、忘れてはなりません。せめてお話のなかだけでも、三人をいっしょにしてあげたいとの願いをこめました。
 尚、小野進さんは、「黄泉の主従立体像」の続きともいうべき「銅像によみがえれ」という長詩も残されています。この詩では、巡りあえた先生に、ハチが自分の生きていた頃を語ってきかせるという物語になっています。






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