ハチ公講座

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ハチ公と美人ハチ公と記念撮影、いかがですか?



飾り 第十六回 「 新東京名所案内 」

 ボシュッ、ボシュッ――
 「一つ目のお化け」が、大きな音といっしょに光を放ったので、ハチ公はびっくりしてしまいました。それは、ハチの大嫌いなかみなりに似ています。新聞社の写真班がハチを取り囲み、写真を写しているのです。
 驚いたのは、ハチだけではありません。渋谷駅の駅員や、駅長までが何事かと目を見開きました。
 七日の新聞に記事が出たハチ公は、「秋田雑種」と報道されました。これに、斎藤弘吉さんは抗議文を送ったのです。
「ハチ公は、れっきとした日本犬です。純粋の秋田犬です」
 新聞社ではすぐに訂正文が出ました。これが却って人々の目をひき、ハチの名を広める結果となりました。渋谷駅には、新聞を読んだ人たちが集ってきました。
「あ、あれがハチ?」
「まあ、大きな犬ねえ」
「咬まないかしら」
 がやがやとざわめきがハチを包みます。
「駅員さん、ハチに肉を持ってきてやったので、食べさせてもいいですか」
「ハチはパンを食べるでしょうか」
 食べ物を持ってきた人もありました。
「ハチ、おまえは偉いんだねえ!」
「よしよし」
「おりこうだね」
 子どもたちが、みんなでハチを撫ぜてゆきます。そうかと思えば、紳士が現れ、
「私は獣医をしている者です。新聞を見て、心配でやってきました。是非、無料でハチの健康診断をさせていただきたいと思います」
 さあ、渋谷駅は大騒ぎです。今まで、ハチをいじめていた人までもが、急ににこにこ笑って、ハチにお愛想をしました。これにはさすがのハチも、ちょっと気味が悪かったことでしょう。
 あっという間にハチ公はみんなの人気者になってしまいました。
 地元の商店街では、ハチ公の人気にあやかって、色々な「渋谷名物」を売り出すようになりました。当時の記録によると、「ハチ公チョコレート」、「ハチ公焼き」、「ハチ公せんべい」といったお菓子のほか、ハチ公の人形や、ハチ公プロマイド、はてはハチ公浴衣なんていうものまであったそうです。
 さいしょにハチ公美談を報じたのは朝日新聞でしたが、やかで他誌も競って報道するようになり、雑誌にも紹介されたり、ラジオ放送で流れるようにもなりました。  もはや、ハチ公は「渋谷のアイドル」ではなく、「みんなのアイドル」となっていました。日本中にハチ公の名は響き渡り、渋谷は新東京名所となったのです。
「あ、あれがハチ公ね」
 自動車に乗って、わざわざ見物に来る人も少なくありません。外国の日本案内記にも渋谷駅のハチ公は紹介されるようになっていました。


第十七回 「 ハチ公は日本犬広報係り 」

 あれよあれよと有名になってしまったハチ公ですが、ただ人気に踊らされていたわけではありません。ハチ公は、大きな貢献をしていたのです。
 それは、ハチ公を最初に紹介した斎藤弘吉さんの活動――日本犬保存運動。
 斎藤さんがひとりで設立した日本犬保存会も、やがて同志が集り、本格的な活動が行われるようになりました。ハチ公のふるさとからは、秋田犬保存会が加わり、山梨県からは甲斐犬愛護会が入会し、各地の日本犬愛好家が集りました。守るべき種や、志す道はそれぞれにありましたろうが、目的はひとつ、「絶やされぬ日本の犬を、次の時代へ」――。
 そして、いよいよ、昭和七年十一月六日、日本初、日本犬展覧会が催されることになりました。この頃、日本の畜犬界はまだまだ発展途上の揺籃期にありました。幾つかの洋犬種の愛好倶楽部が発足されているばかり。犬の展覧会というのも、まだ珍しかったのです。まして、日本犬が一堂に集められるなど、前代未聞のこと。更に、注目すべきことは、展覧会にわれらが忠犬ハチ公も出席するというのですから、普段犬に関心のない人たちにも、強い印象を与えました。

 松屋デパートの屋上で開催された日本犬展覧会には、北は北海道から、南は九州まで、約百頭近くの犬たちが集りました。この内、日本犬保存会により、二頭の犬が特別に招待されました。日本犬のお手本となるような素晴らしい犬と、保存運動に功績のあった犬とを選んだのです。一頭は、伏見宮家で愛育されていた胡麻(ごま)号という秋田犬です。もう一頭が、「渋谷駅の犬」と出陳の備考欄に記された、ハチ公でありました。
 当時の日本犬保存会会誌では、次のように記しています。

「(略)此処に功績あるものとして最初に招待したものが、老犬ハチ号なのである。  之も亦秋田の牡である。(中略)故上野博士未亡人及飼養者の小林菊三郎氏が本会の請を受けて、ハチ老犬最初の展覧会出陳を快諾せられ、而も渋谷駅に旧主を慕ふ名物犬に相応しく、美しく清く装はれた事は特にうれしく、会場内に於いても実に懐かしみある人気を一身に集めて居た様子は老犬の徳とでも讃ふ可きかと思はれた。」
(「日本犬保存会50年史」収録の、昭和七年会誌『日本犬』より)

 わざわざハチ公を目当てで来た人もありました。斎藤さんも、小林さん、上野未亡人も、みんな今日の晴れの日がうれしくてなりませんでした。
「最初は自動車にもなかなか乗らなくて、どうなることかと思いましたよ」
 と、小林さんが朝の一騒動を話せば、
「ほんとうに、会場でむずがってはと心配していましたが、こんなにおとなしくしているので、ほっとしました」
 上野夫人も胸をなでおろし、
「おや、ハチ公へ歌を寄せてくれた人がいる」
 斎藤さんは短冊を見つけて読み上げました。

 亡き主の帰りますかと夕な夕な
 渋谷の駅に老犬の待つ

 名前は、石谷嵯峨という雅号があるばかりでした。
「残念だな。何処のだれか分れば、ハチ公の写真でもお礼に贈りたいのに」
 ハチ公がたくさんの人たちに可愛がられるのが、我が事のようにうれしい斎藤さんでした。

 日本犬展覧会はなかなかの盛況でした。今まで、地の犬と蔑まれ、洋犬種に押されてばかりいた日本犬は、ハチ公の名とともに、知れ渡るようになりました。
 ハチ公の存在は、日本犬保存運動のキャンペーンマスコットでもあったのです。
「ハチ公のような犬を飼ってみたいな」
 という思いはやがて、
「ハチ公みたいな秋田犬を飼いたい」
「忠実だという日本犬を愛犬にしたい」
 と思う人たちを増やしました。
 秋田県大館では、秋田犬を譲ってほしいという問い合わせが殺到したといいます。これを苦々しく感じる愛好家も少なくありません。
「秋田犬は天然記念物です。種の保存をはかるのが先決のときに、そう軽々しく他所へ流出されては困ります。まして、全ての犬がハチ公のようになるとは限りません。ハチ公は上野先生あっての忠犬なのです」
 この時代、日本犬の成犬は千円もの高値で取引されました。良血統の洋犬種の値段と同じです。日本犬の価値は急速に上がっていました。


続く……
 
第十八回〜第二十回は、もう少しお待ちください。




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