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 さくらの花は変わらないのに……
第六回 「 お父さんのいた頃 」
ところで、ハチ公のもとの飼い主である上野博士とは、どういう人であったのでしょう。
上野英三郎博士は、東京帝国大学、農科大学教授という肩書きを持っており、学界にときめく名誉ある学者です。宮中で催された新年会にも招かれているほどのご身分です。お屋敷は渋谷の大向にありました。たいそう広い敷地で、裏庭には野菜畑がありました。庭木も多く、ことに春になりますと、毎年満開の桜が彩りました。花見の宴も催され、明るい笑い声に満ちていました。この、美しく広々としたお庭で、かつてハチは楽しく遊びまわったものでした。
豊かで、満ち足りた上流階級の生活。それが、ハチの最初に知った暮らしです。
上野先生は、ずいぶんお忙しい人で、大学で講義をするばかりでなく、試験場へ赴いて研究をしたり、地方へ出張されて自ら土木の指揮をとったりと、非常に活躍されました。一方で、お体が病気がちであり、療養も必要とされ、それが奥さまの八重子さんを心配させました。
多忙の上野先生ですが、ハチをはじめとして、ジョンやエスたち愛犬をしっかりと可愛がりました。ことに、ハチは家にきたときから病気ばかりするので、先生は普段から気をつけていました。
お仕事で留守がちの先生に代わって、ハチたちの面倒を見ていたのが、書生の尾関才助さんです。尾関さんは、才ちゃんという愛称で親しまれ、残された写真を見ると、まだ紺絣のよく似合う少年です。先生は、才ちゃんに「犬日記」をつけさせていました。これを読むことで、先生がいない間に起こったことが分るようになっていました。
あるときの「犬日記」には、才ちゃんが子犬のハチと、ジョンを連れて散歩に出たときのことが書かれていました。代々木の練兵場で兵隊さんが演習する鉄砲の音が聞こえると、ハチがいやがってむずがったというのです。
この日の日記を読んだ上野先生と奥さんの間に、次のような会話がされました。
「ハチは鉄砲の音が怖いのだな」
「そういえば、此の間子どもらが前の通りでおもちゃの鉄砲をパチンと鳴らしましたら、ハチは大急ぎで座敷にかけ上がりましたよ」
先生は、さっそく才ちゃんに、ハチをつれておいでと言いました。そして、ハチをだっこして、
「おまえは鉄砲の音が怖いのかい。怖くはないんだよ」とあやしてやりました。
まるで、にんげんの親子のような、一家の団欒でありました。
第七回 「 なつかしい日々 」
上野先生は、多くの人から信頼され、尊敬された人でした。門下生たちは深く先生を慕っていました。先生は、思いやりの深いお人柄であったといいます。
やさしい上野先生は、ハチの「性格」を受け止め、まっすぐに伸ばしてやろうと考えていました。
才ちゃんが、ビスケットをごほうびに、「おあずけ」や「チンチン」をハチに仕込んでいますと、先生はやんわりと叱ります。
「尾関、そんなふうに犬に芸なぞ仕込んではいけないよ。犬が卑しくなってしまうからね」
食べ物につられて、犬が卑しい心持ちになるのを、先生は嫌がったのです。
一方で、先生は愛らしいハチに対して、目にいれても痛くないというほどの、「子煩悩」でありました。
ハチは、子犬のころは、よく先生のベッドでいっしょに寝かされていました。うちへ来てからというもの、体が丈夫でないハチは、しょっちゅうおなかを壊していました。先生は心配で、様子を見るとともに、ハチの体が冷えないようにと注意していたのです。ようやく、元気になって、体も大きくなると、ひとりで眠るようにしつけましたが、ハチはさみしがって、クンクンなきました。先生は、つらかったことでしょうが、ぐっと堪えました。
ところが、明日はおうちでお花見の会が開かれるという日。先生は学校から帰ると、ハチをだっこして話しかけました。
「ハチははじめてのお花見だね。明日はたくさんお客さんがくるのだから、座敷にあがってご挨拶しなさい。さあ、きれいにお化粧しようね」
そして、いっしょにお風呂へ入れて貰いました。先生にきれいに洗われて、それから懐かしいベッドのなかに寝かされたのです。ハチは、どんなにうれしかったことでしょう。
また、こういう日もありました。吹雪の晩のことです。
その頃は、もう外の「犬箱」で寝かされるようになっていたハチは、夜中におしっこがしたくなります。ハチは敷地のなかでは用を足さない習慣がついていましたので、表へ出ようとしますが、上野邸のがっしりとした長屋門は、かんぬきがかけてあって、押しても開かないのです。ハチは、クンクン鳴きました。こういうときは、才ちゃんを起こせばよいのですが、書生部屋は遠い上に吹雪く音で、なかなか気づいて貰えません。とうとうハチは、先生の部屋の前へゆき、雨戸をなきながら揺さぶりました。
すると、先生はすぐに起きてくれたのです。
「ハチ、おなかが痛いのか!それとも、ご不浄か」
先生はハチの素振りを察して、すぐに門を開けてくれました。寝間着で飛び出した先生を追いかけて、奥さまがオーバーを持ってきてくれました。才ちゃんも、慌ててやってきて、気づかなかったことを謝ります。先生は、
「なんといってもハチはまだ子どもだから、辛抱して面倒を見てくれ給え」
と答えました。この言葉には、ハチを愛するとともに、まだ少年の才ちゃんを気遣う心もこめられていました。
第八回 「 甘えん坊の『忠犬』 」
「お父さん」と「お母さん」、それから才ちゃんをはじめとする、上野家の人たちに見守られて、ハチはぐんぐん大きくなりました。そして、「ハチ」という個性や性格が育まれてきました。
ハチ公というと、どんなイメージがあるでしょうか。
「忠犬」「恩を忘れない犬」という代名詞や、「かわいそうな犬」という印象が、多くの人に与えられていることでしょう。
どうもハチ公というと、「忠犬」の名にハチ自身の個性が隠されてしまったり、お涙頂戴といった雰囲気になってしまったりいたします。これに対し、本館では「生きたハチ」「ほんとうのハチ」を再現してみたいのです。
そもそも、ハチ公とはどんな「犬格」の持ち主であったのでしょう。
先生の愛情に育まれたハチ公は、結構「甘えっこ」さんであったようです。
たとえば、こんな話も伝えられております。
先生といつも一緒にいたいハチは、来客中でも構わず先生に付きまとい、時にお客さんとの談話の邪魔になることもあったそうです。(上野先生の門下生談)
ハチは、「お父さんっ子」でした。
ひとりで寝るのが嫌で、くんくん泣いたハチ。お仕事に行く先生を追いかけて、とびついて、だっこや頬ずりを求めるハチ。
先生の体が悪くなって、別荘へ静養に出かけることになると、それと察したハチが、「いっしょに連れて行って!」と甘えます。
先生もきっと、別れをさみしがるハチに、「いっそ、ハチだけでも……」と思ったのではないでしょうか。しかし、先生は、別荘へ遊びに行くのではありません。しっかりと養生してお休みにならなくてはいけないのです。それに、いくらハチがまだ子どもだといっても、ひとりだけ贔屓には出来ないのです。
「いやいや、お前を連れていっては、ジョンやエスも連れていかねばなるまい。かわいそうだが、お留守番をしているんだよ」
先生は、やさしくハチに言い聞かせました。
甘えっこのハチ公、これは裏返すと、「さみしがりや」であったともいえます。
ハチ公が失ったもの。それは単純に上野先生一人ではなかったのです。住み慣れた家や家族、恵まれた幸福な暮らしを失ったのです。
ハチ公を忠犬にしたのは、上野先生の愛情だといわれています。
確かにそうですが、しかし上野先生が生きていたら、少なくとも一家が離散しなければ、ハチ公は一生、何処にでもいる甘えっこの犬で暮らしたことでしょう。
ハチ公を「忠犬」にせざるを得なかったものは、上野家の悲劇に他ならないのです。
第九回 「 お父さんはどこに 」
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
上野先生がお仕事に出かけると、そのあとをハチや、ジョンにエスが追いかけます。そして、とびついて、頬をすりよせます。
「こらこら、そんなにしては、歩けないよ」
困った顔をしながらも、にこにこ笑っている先生に、後ろから奥さまが、
「ほら、おいたしちゃいけませんよ。だんな様のお洋服が汚れてしまうでしょう」
と、やさしくたしなめます。
さあ、一、二。一、二。まるで行進するように、先生と犬の一行が門を出ます。ハチがふりかえると、奥さまがいつまでも手をふって見送っていました。
これが、上野家の朝でした。
ところが、ある日を境に、みんななくなってしまったのです。懐かしいお屋敷も、毎日通った道も、桜の木も変わらないのに、「お父さん」がいないのです。「お家」に帰れないのです。そして、家族がばらばらになって、「お母さん」とさえ離れ離れになってしまったハチ――。
もし、わたしたちが、同じような目にあったら。忘れることができるでしょうか。幸福であったあの頃を。大好きなひとたちのことを。
例え、静かで穏やかな日々に身を置くことができても。大切な記憶を消すことは出来ないのです。だから、ハチは渋谷駅へ通いつづけたのでしょう。
そこが、上野先生をはじめとする、過去をしのぶ場所であったからではないでしょうか。
ハチは、もとのお屋敷を訪ねることは、ほとんどなかったといいます。今は、別の人が住んでいるのを知っていたからでした。
ほんとうは、先生がもう帰らないことを、ハチは気づいていたのではないか、といわれています。
先生のお葬式の夜、ハチはガラスを押し開けて、部屋へ入ってきました。そして、棺の下に腹ばいになって、どうしても動かなかったと、後に上野未亡人が語っています。
「おや、ハチがあんなところに……」
「出ておいで、ハチ!」
みんながハチを呼びますが、いやがって言うことを聞きません。奥さまが、
「お行儀が悪くてみなさまに失礼ではございますが、どうかあのままにしてやってください。お別れをいいにきたのでしょうから……」
とあいさつをされました。辺りにはしめやかな空気が満ちていました。
ハチは先生の夜具がしまってある物置に入って、三日間、用意されたエサを食べようとしませんでした。布団をくるんでいる紐を食いちぎると、「お父さん」のにおいがふわっと広がり、脱脂綿と、血のついたシャツが出てきたのです。ハチは、思う存分シャツについた血を舐めました。
いつの間にか、つかれて眠ってしまったハチを起こしたのは、「お母さん」の声です。
「ハチや、こんなところにいたの。ご飯をこの三日というもの食べないというじゃないの!だんな様はね、もう遠い、遠いところへ行ってしまったのだよ……」
ぽたぽたと、ハチの上にあつい涙が降ってきました。
「さあ、早く向こうに行って、ご飯を食べて元気を出すんですよ。ねえハチ――お前もかなしいだろうけど、私だって、とてもかなしくって、この三日ご飯が喉を通らないのだよ……」
「お母さん」は、ハチを抱きしめて、頬ずりをしました。涙がなんべんもハチの背中を濡らしました。
第十回 「 お母さんのにおい 」
かなしい別れを経て、小林さんのお家に落ち着いたハチは、お父さんの思い出を求めて渋谷の町を散歩します。
あるとき、ハチは大喜びで駆け出しました。道を歩いている「お母さん」に気がついたのです。後ろからとびつかれて、上野夫人は道路に転びました。
「お母さん」の姿を見つけると、もう夢中になって、まわりが見えなくなってしまうハチです。日本橋に預けられていたときも、上野夫人が会いに来てくれると、必死に甘え、帰るときには心が裂けてしまうような声で泣きました。
綱を解かれたときには、お店のなかに上がりこみ、同じ年頃の他所の奥さんを、「お母さんだ」と思って、抱きついてしまったのです。
ハチ公といえば、上野先生との絆ばかりが強調されてしまいます。上野夫人は、犬嫌いの誤解を受け、なかには、ハチにろくなエサも与えずつらくあたったかの如くいうひともあるようです。しかし、それはとんでもないことです。
もし、上野夫人がそんな人であったら、ハチはこれほどになついたでしょうか。体いっぱいに抱きついて、甘えたでしょうか。
「お母さん」に甘えるハチの姿を、印象的に書き残している文献があります。それは、日本犬保存会創立者・斎藤弘吉さんのご本です。
昭和8年の夏。彫刻家の安藤さんのアトリエに、ハチがモデルとして通っていたときのことです。
連日の暑さに、ぐったりとして元気のないハチ。なかなか良い格好をしてくれません。ところが、ある日、玄関先に女の人が訪ねてきました。
「ごめんください」
この声に、ハチの耳がピンと反応し、がばりと起き上がると、あっという間に玄関へ駆け出して行ったではありませんか。訪ねてきたのは、上野夫人であったのです。
暑さも忘れて、お母さんにじゃれつくハチ公の姿に、安藤さんと、その場に居合わせた斎藤さんは感動します。
「私はハチの一生であの時ほどいじらしいと思ったことはない。」(「日本の犬と狼」より)
やがて、ハチはおじいさん犬になり、目もかすみ、耳も少し遠くなりました。駅で、上野夫人と同じ年頃の、ちょっと似たような奥さんを見ると、間違えて寄っていったというお話もあります(当時放送されたラジオ番組より。)
最後の日も近くなった頃、衰えたハチを案じて、上野夫人は駅へ様子を見に行きました。
「ハチや」
と、やさしく呼びかける声も、もうハチの耳には届きませんでした。
右手をそっと出してにおいをかがせると、ようやく分ったと、夫人の言葉が残されています(ハチ公の死亡記事より。)
ハチには、「お父さん」とともに、生涯忘れ得ぬ、「お母さんのにおい」であったのです。
続く……(次へ)
★次回予告★
次章では、ハチ公の渋谷生活をご紹介いたします。
「不幸な一生」というイメージの強いハチですが、
実は渋谷という町の人情のなかで、のびのびと暮らしていました。
これぞ、ひとも羨む、元祖犬のスローライフ!!
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