(戦前の絵葉書より/管理人所蔵)


秋田犬図鑑


秋田犬とは
特徴
気性
歴史
秋田犬昔話


秋田犬はどんな犬


 忠犬ハチ公は秋田犬(あきたいぬ)です。では、秋田犬とは、どういう犬でしょうか?
 まずは名前ですが、秋田犬はその名の如く、秋田県を産地とし、ことに大館地方に多く飼育されてきました。よく「あきたけん」と呼ばれますが、「あきたいぬ」というのが正しく、これは「県」と「犬」の混同をさけるためだとも、秋田地方の方言のためだともいい、諸説あるようですが、戦前においては「日本犬」も「にっぽんいぬ」と呼ばれており、「犬」は「いぬ」と発音するのが昔は一般的であったのかもしれません。(日本犬の読み方については、「日本犬図鑑」に詳述しました)。

 秋田犬には、「大館犬」という別名があります。大館地方を主な産地としていたからです。「秋田犬」という名称は昭和六年の天然記念物制定時に確定したものですが、それ以前からも、一般には「秋田犬」の名で通っていたようです。(昭和六年以前の文献にも、「秋田犬」という言葉が確認されています。)
 また、大館ばかりでなく、その周辺の土地でも秋田犬のいたことが確認されています。鹿角地方には名犬が養われていたといいます。昭和初期には廃れておりましたが、マタギの部落である阿仁にも、秋田犬を飼育していたお屋敷がありました(後述、「旦那の白」参照のこと)。これらの犬たちは、秋田犬といっても、それぞれの土地独特の特徴を持っていたようです。「秋田犬」という名目のもと、種の確定がされる以前のことですから、限られた環境のなかで、独自の発展をしていったものでありましょう。
 大正九年、天然記念物制定の為に調査が行われたとき、あまりに種が雑多としており、これらを一つの犬種として統合するのは難しい状況でありました。秋田犬が闘犬目的に雑種化していたばかりでなく、それぞれの土地における犬の違いも、関係していたものと思われます。


特徴


 秋田犬は日本犬唯一の大型犬です。体の高さ(体高)はだいたい牡が六十六・七センチ前後、牝が六十・六センチ前後といわれ、牡のほうが牝よりも大きめです。立った耳、巻きあがった尾はいずれの日本犬にも共通しますが、秋田犬は「裏白」といって、お腹など裏側の部分が白いのが特徴です。毛皮の色は、最も知られる「赤毛」(茶色に見えますが、日本犬では「赤」と表現します)のほか、「白毛」、「虎毛」の三色です。昔は「ぶち」模様の犬もいたようですが、近年はすっかり目にしなくなりました。色については、個々の犬によって、色の差しかた、薄い、濃いなどの違いがあります。
 顔はふっくらとして、目はちょこんとくっついているような感じ。体つきは、見るものにどっしりとした重量感を与えます。
 秋田犬は、怖い顔をしている、と思い込んでいるひともあるようですが、どうしてどうして。素朴で、おっとりとして、落ち着きの中に優しさと威厳があります。  表情もたいへん豊かで、笑った顔、むくれた顔、甘えた顔など、色々な表情を見ることが出来ます。


気性


十人十色といって、ひとがそれぞれ違うように、犬もその犬その犬で性格は違います。しかし、たとえば「日本人」にはこういう人が多い、といったふうに、ひとつの「犬種」の傾向というのはあります。
 日本犬は、あまり社交的ではないといわれます。秋田犬もその例に漏れず、大勢の人に愛想よくふるまうのはちょっと苦手です。また、キャッチボールやフリスビーなどの遊びを、あまり好まない子も多いようです。その点は活動的な洋犬種と異なります。
 秋田犬はあまり人に慣れないともいいます。けれども、決して人間嫌いではないのです。実は、なかなか恥ずかしがりやさんでもあるのです。


歴史


 日本犬の場合、歴史はあるのに、資料が残されていないために、分からない部分も多いのです。
 秋田犬は猟犬であったと考えられることが多いのですが、「秋田マタギ」という猟犬を祖にしてはいるものの、近代以降は、猟専門に飼育されることは少なかったものと考えられます。
 江戸時代、佐竹公に闘犬として用いられるようになって以来、長きにわたり、土佐闘犬と並んで名を馳せました。しかし、これがために、闘犬用の混血が多く作られて、本来の姿を損なうといった弊害も生まれました。
 大正時代から昭和にかけ、当時の愛犬家の努力によって、本来の和犬へと復元されました。そして、昭和六年、日本犬初の、天然記念物に指定されたのです。忠犬ハチ公が世の中に知られるようになったのは、この翌年の昭和七年のことです。

 秋田犬は、日本犬の内では早くから名前を知られていました。明治三十三年には、皇太子殿下(後の大正天皇)に献上されました。発案したのは当時の秋田県知事で、県立大館中学校より、校長先生が牡牝の二頭を伴い上京しました。詳しい資料は、大館中学校の火災により失われてしまいましたが、殿下は献上された犬を、殊の外御満足に思召された、という記録が残されています。
 また、閑院宮殿下が秋田県ご通過の折、秋田犬をお目にかける機会がありました。このときには、本犬種属に保護を加え、発展を計るようにとのお言葉があったといいます。
 その後、大正三年に行われた大正展覧会には牡と牝の二頭が出陳され、銀牌と銅牌を受ける名誉を得ました。(小野進の著作参考)
 こうした背景もあったからでしょう、秋田犬は地元の豪農や名家に、ステータスとして飼われることが多かったのです。東京で華族が愛好したという話もあります。秋田犬は強さを競う闘犬ばかりでなく、姿を楽しむ観賞犬の役割も持っていました。
 一方で、家庭において飼育される際、番用も兼ねてはいたでしょうが、現在でいうペットとしても扱われていたのが分ります。忠犬ハチ公は、上野博士に家族の一員として可愛がられていました。 
 今では、人気犬種として多くの人に愛される柴犬も、昭和初期においては、猟犬の印象が強く、愛玩とする人は少なかったのですから、それを思えば秋田犬とは、日本犬では最も早くに、「家庭犬」として親しまれた犬といえましょう。


秋田犬昔話


秋田地方の古いいわれ


 日本犬唯一の大型犬秋田犬は、六十センチ以上の大きな体。昔の本には、「牡ならば、肩迄の高さ二尺以上、牝ならば一尺八九寸、牡十二貫以上十四五貫、牝八九貫以上」と書かれています。
(一尺は約三〇・三センチ。一寸は約三・三センチ。一貫は約三・七五キログラム)
このように、大きくて重いために、昔の秋田地方では、「犬をつれて川を渡るな」と戒めたのだといいます。
(小野進著「秋田犬・老犬さま」より。文中引用も同書。)

旦那の白


 白い犬に忠犬が多く、飼い主の助けになるという信仰から、昔白犬の牡を飼うのがしきたりとなっていたお屋敷が阿仁にありました。村人からは「旦那の白」と呼ばれ、長きにわたって美しい白犬を養っていたそうですが、昭和のはじめ頃には秋田犬の数の少なさに、その風習も廃れてしまったようであります。

一番力持ちの秋田犬


 安政の昔、北秋田郡は早口村の字岩目という土地に、兄弟もなく、たった一匹だけで生まれてきた牡犬がありました。大館の浄応寺に貰われてゆき、「モク」と名付けられました。そのお寺は「中の寺」と呼ばれていたことから、「中の寺のモク」ともいわれ、それはたいそうな力持ちで知られておりました。
 あるときは、辺りの村々から、檀家の米を片側に二斗づつくくりつけて歩いてきたこともありました。子供なら、ふたり乗せてもへいちゃらで、どんどん駆けてゆきますし、若者ひとりをまたがらせても、半里以上歩いたといいます。走るときは地響きがし、犬同士の喧嘩なら、二匹でも三匹でも向こうにまわして、決して負けることはありませんでした。
 力持ちのモクは、その頃を知る人々には忘れられない犬でした。幕末の乱世を行きぬいたモクでありましたが、明治四年、士族の槍に突き殺されて、壮絶な最期をとげたと伝えられております。
(いずれも、小野進著「秋田の動物を語る」より)

参考文献・引用


小野進「秋田犬・老犬さま」(昭和九年発行)
小野進「秋田犬・奥羽北海の動物を語る」(昭和九年発行)
小野進「秋田の動物を語る」(昭和十一年発行)